イエスの生涯

イエスの生涯 (新潮文庫)

遠藤周作とイエス

先日、町田市民文学館で開催された「遠藤周作とPaul Endo」という展示会を訪れた。

僕は、『沈黙』や『深い川』などの遠藤周作作品に思い入れがあり、早速行ってみることにした。

そこでは、遠藤周作がキリスト教の洗礼を受けた幼年期にはじまり、海外留学で経験した悩みが

綴られた手紙、そして作家として発表した数々の作品群と、その背景にあった彼の信仰の苦悩・・・

彼が1996年に亡くなるまでの軌跡がありありと、生々しく伝わってくる品々が展示されていた。

もちろん僕は、あるところ以上には、彼の“信仰”を理解することができなかったのも事実である。

確たる信仰を持たない僕にとって、宗教は宗教“哲学”でしかあり得ないのだ。

しかし、それでも遠藤周作の懊悩にどこかで共感できる。この感覚は、どこからくるのだろうか。

彼が煩悶しながら描くイエスの姿に、僕はなぜ心惹かれるのだろうか。

この感覚を確かめるために、僕は遠藤周作のイエス像が描かれた『イエスの生涯』を紐解いた。

 

イエスが目の当たりにした現実

聖書の中で、イエスは人々に神への信仰(すなわち、隣人を愛することなど)を説いてまわったといわれる。

エルサレムに至るまでの道のりで、人々に神の国が来る、そしてそれに備える必要があることを告げ、

また、ことあるごとに奇跡を示したのだった(『福音書』塚本虎二訳)。

しかし、そんな彼を待ち受けていたのは、信仰よりも目に見える利益(奇跡)を求める弟子や民衆だった。

民衆は、ローマに虐げられている今、イエスが反逆を起こしてくれるリーダーになるものと信じていたが、

実際にはイエスは自分たちの思ったような行動に出てくれないと悟ると、彼に幻滅し、憎悪すらした。

また、時の権力者たち(聖書学者や議員)も、地位や名誉という既得権益を守るため、

イエスの布教によって、自身の権力の基盤が崩れるのを恐れ、イエスを悪いものとして取り除こうとした。

このような構図の中で、イエスは真意を伝えられないまま、ゴルゴタで磔に処される。

ただし重要なのは、イエスはそれを分かっていながら最期を迎えたという点だ。

 

イエスの覚悟

イエスは、人間が信仰につまずくことを知っていた。

彼は洗礼者ヨハネとは違い、神は人間に正しい行いを求める厳しい存在でなく、「やさしい母のような」

存在だと信じていた。だからこそ、彼はペテロに前もって「私のことを知らないと三度言う」だろうと語り、

イスカリオテのユダが自分を裏切ろうと何も糾弾しようとはしなかったのだ。

彼はナザレの小さな町の貧しさとみじめさとのなかで生きている庶民の人生を知っておられた。
日々の糧をえるための汗の臭いも知っておられた。
生活のためにどうにもならぬ人間たちの弱さも熟知されていた。
病人や不具者たちの嘆きも見ておられた。
祭司たちや律法学者ではない、これらの庶民の求める神が、
怒り、裁き、罰するものだけではないと彼は予感されていたのである。

イエスは、人間のこの弱さに絶望していたのだろうか。いや、決してそうではない。

彼は根気強く教えを説いて回り、「男女の哀しみをひろい歩」くように、彼らの傍らに寄り添い、

その罪を共に背負っていこうとしたのである。

 

無力な人の子としてのイエス像

ここまでは、一般的な利他的な“隣人愛”のイエス像そのものである。

しかし、遠藤周作はさらに一歩踏み込んで、そこに人間イエスの本当の魅力、“信仰”の源泉を見出していく。

イエスを信じ、神を信じても、僕らに魂の救済はいつまでたっても訪れないという現実。

しかも、人々の救済を希ったイエスでさえも、結局は磔に合い、何もなす術がなかったではないか。

しかし、遠藤周作は、この辛い現実にあっても不器用に生き続けたイエスこそ、僕らの姿そのものであり、

そのような無力さをさらけ出すイエスだからこそ、信じるべきではないかと考えたのである。

我々は知っている。
このイエスの何もできないこと、無能力であるという点に
本当のキリスト教の秘儀が匿されていることを。
そしてキリスト者になるということはこの地上で「無力であること」に
自分を賭けることから始まるのであるということを。



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