爆笑問題と考える いじめという怪物

爆笑問題と考えるいじめという怪物 (集英社新書)

“どうやって”ではなく、“なぜ”のいじめ論

日本において、いわゆる“ いじめ”の論議は1970年代半ばにはじまった。以来、いじめられる若者の痛ましい死が報道される度に、僕らは噴き上がり、いじめる若者を非難し、いじめを見過ごしてきた学校や教育委員会、いじめを誘発するテレビ番組やゲームを批判してきた。そして、いつしか“自警団”のように加害者に私的制裁を加え、見ていいテレビ番組を制限してきた。

しかし、2011年の大津事件を見るにつけ、解決に向かっている手ごたえがどうしても感じられない。僕らのいじめ批判は、単なる“空気”的な盛り上がりに過ぎなかったのではないか。本書では、そうした問題意識を踏まえ、近視眼的ないじめ批判でなく、いじめが存在する根本原因を直視することでこの根深い問題に対する解決の糸口を探ろうと試みている。

いじめれた経験を持つ小島慶子元アナウンサーの言葉は、いじめ問題を考える重要な視点だと思う。

なんでいじめるのかということが知りたい。人をからかったり、傷つけたり、いじめのもとになるような意地悪な気持ちは私の中にもありました。その気持ちと、それを組織的ないじめや陰湿ないじめにまで発展させた人との違いは何だろうというのを知りたいのですが、そこは触れられないことになっています。

 

いじりの構造

本書は、3つのパートで構成されており、それぞれに違った切り口でいじめを映し出そうとしている。

1. 生きて、問い続けよう/太田光のいじめ考察とメッセージ
2. “いじめ”のない学校探訪記/不登校経験者が通う東京シューレ葛飾中学校の事例
3. 座談会・いじめ問題を考える/爆笑問題、タレントゲスト、シューレの学生達の討論会

読み終わった時に振り返ると、いじめを理解する本質的な手がかりとして、“いじりの構造”に対する理解が、どのパートにも共通する通奏低音するキーワードのように感じる。僕らは誰しも、程度の差はあれど、人をいじって、いじられた人が困っているのを見て面白いと感じる。そこで、“いじめ”と“いじめ以外”を区別しているものとは、一体何だろうか。

太田光はお笑いの視点から、いじる側といじられる側が「ここまでは大丈夫だろう」という共通理解を模索し合う信頼関係や、いじりを見て笑う側にも、蔑みでなく共感や敬意などの複雑な感情が存在することでいじりが“いじめ”でなく笑いとして成立していることを丁寧に紐解いていく。

ただし、もちろん“いじめはいじめられた側の受け止め次第であり、境界線を引くのは構造的に無理だ。その意味では、コミュニケーション的観点からは、いじりが“いじめ”にならないような人との関わり方を、実際の体験を通して研ぎ澄ましていくことでしか、いじりのいじめ化を防げないのではないだろうか。

 

逃げの発想

しかし、未成熟な若者同士のコミュニケーションがいじめ化するリスクは、どうしても存在する。だからこそ、いじめられる側は状況に応じて“逃げる”という選択肢を選んでいい。いやむしろ、逃げるべきなのだ。そもそも論として、お笑い業でもないのに、いじられること自体、無理して課される必要など全くない。

重要なことは、“逃げ方”にはたくさんの方法があるということだ。太田光やシューレの校長、いじめられた経験を持つゲストたちは、自殺をした仲間に理解を寄せながらも、誰にも縛られない想像力の可能性、フリースクールをはじめ相談できる場の広がり、学校から逃避することなど、様々な“逃げ方”が存在することを必死に伝えようとしている。こうした“逃げ方”に対する世の中の仕組みを、フェールセーフとして早急に高めるべきだと思う。



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