増補 広告都市・東京

増補 広告都市・東京: その誕生と死 (ちくま学芸文庫)

社会を語る象徴としての広告

広告とは何か。形を変えながら、つねに僕らの前に立ち現れてくる広告の歴史を紐解き、単なる商業的な役割を超えて僕らの社会を映す鏡として広告を捉え直した本書は、広告論としてバツグンに面白く、大学生の頃に読んで以来、繰り返し読んでいる。

プリミティブな主張的広告に代わって、1980年代にパルコに象徴される街の文化としての広告が誕生したものの、パルコ以降、日本全体が消費社会として平坦化していく中で、現代広告は情報アーカイブとして開き直った存在になっていった・・・。このように大局として広告の移り変わりを捉える試みは、僕らが日本社会を考える上で貴重なフレームワークを与えてくれる。

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トゥルーマン・ショーと広告

本書はまず、映画「トゥルーマン・ショー」を下敷きに広告の本質をあぶり出していく。この映画は、主人公トゥルーマン(ジム・キャリー)の生活が、実はテレビ番組として、24時間、世界中で放送されているという面白い設定のフィクション・ストーリーだ。彼の住むシー・ヘブンはハリウッドの超大型スタジオで、住人は彼の妻も含め全員が役者、スポンサーの商品を番組内で扱うことで広告収入を得るという壮大なプログラムである。

そんなことはつゆ知らず、穏やかに過ごしていたトゥルーマンだったが、スポンサー商品を無理やり紹介しようとする妻の挙動などに違和を感じ、この世界の虚構性を察知した彼は、とうとう外の世界を目指し、航海に出る。

 

広告の暴力的ネイチャー

この物語は一般的にメディア批判的な文脈で語られがちだが、著者はシー・ヘブンが失敗に終わった本質的原因として、そこに“広告の暴力性”を見て取る。つまり、広告は、明示的に/暗示的にはさておき、常に周りとの差異を創出することでしか広告“らしく”いられないということである。一見完璧に見えたシー・ヘブンも、広告を黙らせておくことは最初から無理があったのだ。著者はこうした性質を、広告の「脱文脈性=メディア寄生性」と呼び、以下のようにまとめている。

  • 資本の論理とは、交換の動機づけを得るために、空間的・時間的・記号的差異を自己調達する資本の行動原理のことである。つまり、資本はつねに共同体(内部)の外部を〈発見〉もしくは〈創出〉しなければならない。
  • 広告は、差異を創出する資本の技術であり、私たちの日常生活と資本の論理とを媒介するメディエイターである。

 

都市を巻き込んだ近代広告(~1980年代)

実は、日本では現実にシー・ヘブン的世界が機能していた時期があった。それは、パルコが渋谷という街全体を広告でラッピングした1980年代の大ブームである。公園通りやスペイン坂をビジュアルやサウンドで覆い、人々もパルコらしさを身につけてやってくる。これは、ネオンぎらぎらの広告ではなく、イメージ空間(コト的空間)として文化的に溶け込んだ新しい形の広告の出現と捉えられるが、なぜこのような変化が起きたのだろうか。

著者は、ボードリヤールの消費社会論を引きながら、次のように分析を加えている。

「使用価値」とか「上っ面ではない、本当の私」といった、記号の向こう側にある「実態」「実在」が摩滅し、すべてが「オリジナルなきコピー」によって覆いつくされた経済―社会システム(シュミラークル)

著者は、消費社会の進展に伴い、人々のアイデンティティに広告が訴えるのではなく、広告都市空間そのものがそこを歩く人びとのアイデンティティ装置として機能するという僕らのアイデンティティのあり方が映し出されていると考えたわけだ。

 

近代広告の死が意味するもの(1990年代~)

しかし、1990年代に入ると、面白い現象が相次いで起きてくる。ディズニーシーは外界(東京湾)と連続し、ヴィーナスフォートはヨーロッパ“っぽさ”を売りにする。閉じた文化空間としての1980年代の広告都市から、一体何が変わったのだろうか。著者は、消費社会の進行により、郊外都市が渋谷化し、渋谷の必然性が低下したことを例示する。渋谷は近くのコンビニ的存在。それは情報アーカイブとしてザッピングされる対象でしかない。そこでの広告は、Qフロントの大画面から情報を流す位置づけ以上にはなり得ない。

ディズニーシーやヴィーナスフォートは、そうした閉じた空間に対する限界を弁え、場合によってはそれを逆手にとって、メタ的な面白さを提供するという、広告が新たに考え出した方策だったのだ。

 

「接続志向」という社会性

そうすると、1980年代に広告に支えられていた僕らのアイデンティティは、喪失することになる。1990年代以降、僕らのアイデンティティはどこに行こうとしているのだろうか。そのポイントを一言化すれば、見られていないかもしれないという欲動に駆られ、自ら進んでトゥルーマン化せざるを得ないわれわれ像である(S.F.Wという映画がその様子を克明に描いている)。消費社会の平坦さに気づき、“これは”という所属先を失った僕らは、ブログやTwitterでつぶやき、FacebookやLINEで誰かとつながっていることに安らぎを見出した。

しかし、コミュニケーション(たれ流し)が、意味やメッセージを介することなく次のコミュニケーション(覗き見る)へと接続されているという「接続志向」とは、著者が指摘するように、「接続を拒否する他者の可能性をぬぐい去れない、秩序の社会以上に苛酷な」社会のあり方である。



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