五分後の世界

五分後の世界 (幻冬舎文庫)

日本を問い直す

作者村上龍は、『希望の国のエクソダス』で、主人公の少年にこう語らせた。

この国には何でもある。・・・だが、希望だけがない。

この物語も、こうした”日本という国の在り方”に対する問いかけに連なる作品のひとつであるが、「もし日本が本土決戦を体験していたら」という架空の歴史に基づいて想定される日本の姿と現実の日本の姿を対比する形で読者に迫るという、その中でも特に踏み込んだ形の表現となっている。

日本は、「あの戦争は何だったのか」を「敢えて」振り返らず、いち早い復興に邁進してきたわけだが、復興を終えた今では、「敢えて」の忘却から、ただの忘却にいつの間にかすり替わっていないだろうか。こうした問題意識に応える、著者自身もMagnum Opus(最高傑作)と評する集大成的な作品である。

 

人口26万人の日本

現実の世界と僅か5分時差のあるパラレルワールド、”あちら側”の日本は、1945年8月15日に終戦を迎えなかった。抗戦を続ける日本軍に、連合軍は広島・長崎のみならず、小倉・新潟・舞鶴へと原爆を投下していく。焼け野原と化した日本は、 米軍が南九州に上陸し、本土決戦にもつれ込んだ結果、8,000万人が犠牲となり、その後、北海道・東北をソ連、本州・九州を米国、四国を英国が統治する被占領国となってしまった。

街に住むのは占領後第二世代の混血児たちで、日本語を話せる住人はほとんどおらず、かつての日本の面影はもう残っていない。一方、生き残った26万の日本人は、アンダーグラウンド(地下要塞)で、連合軍と戦い続けていた。そんな”あちら側”の世界に、”こちら側”の人間「小田桐」が紛れ込んでしまう。

 

小田桐の決心をどう読むか

“あちら側”の日本人は、プライドと勇気がモットーで、責任は常に明確、サバイバル能力が高い。それは、バンザイ突撃やハラキリのような精神論から抜け切れなかった日本人の姿とは違う。彼らの戦いは無謀だと思われるかもしれないが、そうした姿勢は敵からも尊敬されるほどだという。何十ページにもわたって描かれる壮絶な戦闘を生き抜く姿は、隙のないヒリヒリとした緊張感がある。

小田桐は、”こちら側”の世界に帰るための行軍の途中で戦闘に巻き込まれ、死の間際まで追い込まれるのだが、それでも最後に、小田桐は5分遅れていた時計を合わせ、”あちら側”の世界で生き抜く決心する。小田切を過酷な生き方へと誘ったものとは、一体なんだったのだろうか。

 

賛否両論の物語

正直なところ、この物語が僕たちに発するメッセージを、僕はまだ汲み取り切れていない。本書で描かれる決戦的の世界は、必ずしもこうあったらよいという日本の姿に近いわけではないからだ。例えば、『半島を出よ』では、北朝鮮が攻めてくる強烈なフィクションを提出しつつも、そこで葛藤し、新しい姿を作り出していく日本人を描いており、ポジティブなメッセージとして受け取った。

しかし、こちらの日本軍はあくまで冷徹で、今の日本人が学ぶべき部分を感じると同時に、そうはいっても肯定的には受け取れない部分がある。おそらく、この物語を読んだ読者の感想も、肯定か拒否かの両極端に分かれてしまうような気がする。その点、徹底してリアリティに寄り添った『半島を出よ』の方が個人的には好きだが、いかがだろうか。



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