無限の網 草間彌生自伝

無限の網 草間彌生自伝 (新潮文庫)

クサマアートとの出会い

いきなりだが、僕は個人的に現代アートがあまり好きではない。ロンドンにいた時も、Tate Modern(近現代美術館)でウォーホルやリヒテンシュタインをはじめ、現代アートを代表する人物の作品を見たが、グラフィカルでキレイなポップアートにしろ、日常的なオブジェクトをデフォルメして再配置したオブジェにしろ、再帰的な現代やるせなさを乗り越えて、生への新たな感動を刺激するまでにはどうしても至らなかったのだ(僕らは岡本太郎の“拒絶しきれない驚き”のアングルが示したところを思い出す必要がある)。

草間彌生に対しても、注目が集まっていることは知りつつも、勝手にそのような括りに当てはめ、深く着目してこなかった。しかし、彼女の出生地である長野県の松本市美術館で作品に向き合った時、見方が変わった。

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クサマの根底にある何か

クサマアートと言えば、ご存知の通り、何物も水玉模様で多い尽くすのがアイコンになっている。この美術館に展示された「無限の鏡の部屋」や「果てしない人間の一生」などの作品も、大きいカンバスや展示室全体を何かに取り憑かれたように水玉が覆い、見るものを困惑させる。しかし、ここで一番印象的だったのは、実は彼女が十代の頃に描いた「玉葱」という作品だった。

この作品には3つの玉葱が写実的に描かれているが、風変わりなのが背景にチェック模様が配してあることだ(玉葱の下にチェックの布が敷いてあるように見える)。変哲のない静物画に、カンバスの端まで途切れない反復模様を置いた彼女の心には、意匠として以上の何かを託そうとした思いが隠されているのではないか。そう感じた僕は、美術館内に併設されたギフトショップで迷わず本書を買ったのだった。

 

クサマ・ハプニング

本書では、生い立ちからニューヨーク時代、日本に戻って以降の活動までが描かれるのだが、松本での幼少期に、母親の厳しい道徳・貞操観念に縛られ、自分の意思を抑圧され続けた彼女が、自由の地ニューヨークで、これまでの鬱憤をアートへの力に変えたかのように、水玉一色のオブセッシブでアクシデンタルな不思議の世界を創り出していく様は“異様”だ。

性の解放を通じて人間の生を取り戻すアメリカのヒッピー・センセーションと融合したクサマアートは、セックス、オージー、ホモなんでもありのハプニングを先導し、その体に水玉を塗り込んでいく。寝食を忘れてアートにのめり込む彼女は、このハプニングに対してこう語っている。

私自身の内から溢れ出る必然性を土台にした創造への企てであり、営為であった。

 

オブセッシブな作品が意味するもの

僕は正直なところ、こうしたクサマアートを受け止めきれていない。しかし、この自伝に記されたいくつかの言葉を介して、ようやく自分との接点を見いだせた気がする。

今日、多くの人々は、飽食と猥雑と経済大国への道を求めて、栄達のためにせめぎあい、さまよっている。そうした社会の中で、重い荷物を背負った道を求めて歩むことは、より険しく、より困難になっている。しかし、そうした中でこそ、私はなおのこと魂の光明に近づきたい。

そう考えたクサマは、水玉を使い、僕らを縛る全てのものを滅却し、“ただあるまま”に解き放とうとした。

水玉、すなわちミリオンの粒子の一点である私の命。水玉の天文学的な集積が繫ぐ白い虚無の網によって、自らも他者も、宇宙の全てをオブリタレイト(消滅)する

オブリタレイトされた先に何が見えるか。それを見る者は試されているとも言えるかもしれない。



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