爆笑問題のニッポンの教養 ひきこもりでセカイが開く時

爆笑問題のニッポンの教養 ひきこもりでセカイが開く時 精神医学 (爆笑問題のニッポンの教養 15)

みんな病気だ!

今回の「ニッポンの教養」のゲストは、臨床医として精神医学に携わり、出版活動でも著名な斎藤環。

テーマは“ひきこもり”。斎藤医師は、この“ひきこもり”論で多数の著書を持つ第一人者である。

しかし、よくよく考えると“ひきこもり”とは一体どんな状態を指すのだろうか。

医師の立場からは“ひきこもり”とはどのような心理と定義されるのか。

キーワードは“程度論”にあり

僕らは「みんな病気で、程度の違いでしかない」という、この本質を弁えたうえで、

心の振れを本人が、そして周りが許容し、「よくも悪くもこんなものだ」というところに

心を落ち着かせることができるか否か。ここが斎藤環医師としての“ひきこもり論”の実践だ。

 

心のモードの二極化

では、“程度論”とは具体的にどのようなことか。

斎藤医師は、若者のモードを「ひきこもり系」と「じぶん探し系」に分類して説明している。

「ひきこもり系」とは、「非社会的モード」で、他者との交流より自分の関心を追求することが好きなタイプ。

一方の「じぶん探し系」は、コミュニケーションが巧みで、他者と積極的に関わる社交的な特徴を持つが、

他者に自己イメージが支えられているため、コミュニケーションが不足すると自分を見失いやすいタイプ。

あなたはどちらのタイプに近いだろうか。僕はどちらかというと「ひきこもり系」に分類されると思う。

こうした違いは誰にでもあるが、問題は若者においてこの2タイプの“二極化”が進んでいることだという。

二極化が進むことで、いずれのモードにおいても「自分は何者であるか」という疑問に

飲み込まれやすいタイプの人間が増えているというのが、現代の症状だ。

 

世間との“妥協”

このような状態から引き戻すには、世間と“妥協”することが重要だという斎藤先生の指摘がポイントだ。

世間との妥協とは、“自己愛の延長”とも言えるかもしれない。“感受性の拡大”とも言えるだろう。

こんな奴もいるんだと、相手の身になって感じるきっかけが起点になって、

斎藤教授の言う「よくも悪くも自分だろう」、

ゲーテの言う「星のように急がず、しかし休まず、人はみな自らが負い目のまわりをめぐれ!」を

肯定的に甘受し、生きることに少しずつ肯定的な気持ちが生まれてくる。

そうした妥協の機会が少なく、個人が世間に晒されやすい現代は、なかなか厳しい。

 

心の“成熟”

しかし、そもそも“ひきこもり”は、一般に偏ったイメージが定着し、特殊な病気のように思われがちだが、

実存に対する葛藤という意味においては、程度の差はあれど誰しもが抱える永遠の悩みのはずだ。

一生の中で、どこで世間と折り合いをつけられるか、もしかしたら最後まで葛藤で終わるかもしれない。

そのように生きることに心配している存在を、周りが積極的に認めていくことが重要だ。

だからこそ、斎藤氏は“ひきこもり”を特殊化させず、医師として治療することと、

文筆活動で肯定することの両方からアプローチすることを大切にしているという。

それにより、モード頼りで自分を支えることのない、“成熟”した人間になることを支援している。



この本についてひとこと