車輪の下

車輪の下で (光文社古典新訳文庫) Unterm Rad

並みの青春小説と何が違う?

ヘルマン・ヘッセの有名な『車輪の下』は、誤解を恐れずに言えばよくある青春物語だ。親からの命令への反発、自分の世界への閉じこもり、新しい学校への期待、周囲へのプライド。そんな、誰もが経験したことのある感情が、ハンスという少年の姿に映し出されている。

いまさら古典で青春物語を読むより、もっと面白い現代的エンターテイメントの方が今の僕らには楽しいのかもしれないが、それでも今も『車輪の下』が読み継がれているのには理由があるように思えてならない。それは、いわゆる尾崎豊の「支配からの卒業」的な素朴な反抗心に留まらず、そうした支配が仮にあるのだとしても、ハンスはどうすべきだったのかをもう一歩深く考えさせる物語の力があるからだと思っている。

 

あらすじ

あらすじを追うと、大まかにはこんな感じだ。

舞台は1900年前後のドイツ。ヘッセの故郷であるカルプ市を思わせる田舎町が舞台だ。天才少年のハンス・ギーペンラートは、遊びたい欲求を我慢し、苦しい受験戦争と戦っていた。ハンスは競争を勝ち抜き、エリート養成学校に2位の成績で合格するのだが、学校の仲間と関わるうちに自分の生き方に疑問を感じるようになる。

しかし、周囲の期待に応えようとし続けたことで彼は疲弊し、ついに学校を退学してしまう。町に戻ったハンスは、リンゴ工場の手伝いなどをして出直そうとするのだが、自らの挫折感と周囲への劣等感から自暴自棄になり、酒に酔って川に落ち溺死する。

 

「周囲の目」の現実

プロットだけ追うと、どうしてもありがちな話にしか見えないかもしれないが、僕はこの物語から、少なくとも2つの学びをもらった気がしている。ひとつは、ラストシーンでのハンスの死の描かれ方に関連している。ハンスの死は、泥酔による事故ではあるが、自暴自棄になる中で意識的に無抵抗だった(死を選んだ)ようにも読めるように描かれている。

ハンスはこうして最期は死に頼るしかなかったわけだが、その「死」が、ハンスに受験以来の再びの注目をもたらしたというのは皮肉だ。あれほどハンスを悩ませた周囲の注目など、本当に気にすべきものなのか。このシーンで改めて考えさせられた。

 

「みずから」に徹するしかない現実

もうひとつは、じゃあハンスのひとりとして僕はどう生きるべきかということだ。あるときには周りからの評判に支えられ、あるときには周りからの目を気にして生きたハンス。彼は結局、エリート学校に入ったものの、いや、そういう学校に入ったからこそ、自分には肝心の目的意識やこだわりが欠けていることに気づかされた。機械工として働き出すシーンは、遅まきながら彼なりにどう生きていくかを足掻きながら模索している姿だったのだろう。

それでも死を選んだハンスを見ていると、「みずから」に徹するのは本当に難しいことだと感じる。しかし、ヘッセはそれでもそこを踏ん張れない限り、誰しもハンスの二の舞になるという目を背けがたい事実を突きつけることで、逆説的に読者に語りかけているように思えた。



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