柔らかい個人主義の誕生 消費社会の美学

柔らかい個人主義の誕生―消費社会の美学 (中公文庫)

消費社会論の名著

消費社会に立脚した近代の個人主義が内包する可能性と課題をテーマにした日本を代表する劇作家・評論家である山崎正和の代表的名著。

この本の面白さは、個人が世界と直接対峙せざるを得ない近代以降の再帰的大衆論と、価値観の多様化に対応した新しい消費者向けマーケティングの考え方が統合されており、理論とプラクティスを橋渡しするインサイトが詰まっているところにある。1960年代から1970年代にかけての世相を分析対象にしている点では古いと思われるかもしれないが、むしろ1970年代に既にここまで先を見通していたのかと驚かされることの方が多いくらいだ。

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ターニングポイントとしての1970年代

著者は、1970年代を日本社会が転換したひとつのターニングポイントと見ている。1960年代までは、東京オリンピック、大阪万博に代表されるように高度経済成長の真っ只中。更なる経済成長を追いかけ、みんな(国家)と私(個人)が同じ目標を共有していた。こうした時代の個人は、自然と目的志向、一致団結、競争精神、仕事第一がモットーだった。一方、1970年代といえば、オイルショックで不況にあえぐ中で「猛烈からビューティフルへ」が流行した。国の成長スピードが落ちる反面、個人の余暇は増え、国・職場・家庭における繋がりより、「個人の生涯の充実」が優先されていったわけだ。

著者はこうした転換を「硬い個人主義」から「柔らかい個人主義」へと評した。

皮肉なことに、日本は60年代に最大限国力を拡大し、まさにそのことゆえに、70年代にはいると国家として華麗に動く余地を失ふことになった。そして、そのことの最大の意味は、国家が国民にとって面白い存在ではなくなり、日々の生活に刺激をあたへ、個人の人生を励ましてくれる劇的な存在ではなくなった、といふことであった。

 

柔らかい個人主義と消費社会の関係

「柔らかい個人主義」へのシフトと「消費社会」への転換は非常に相性がいい。そのことを理解するには、そもそも消費社会とは何なのかを突き詰めて考える必要がある。著者は消費社会の本質を、次のように鋭く喝破している。

目的の実現よりは実現の過程に関心を持つ行動

いわば、消費とはものの消耗と再生をその仮りの目的としながら、じつは、充実した時間の消耗こそを真の目的とする行動

つまり、個人の充実を追い求めるひとつの形として、消費という行動があるわけだ。近年のマーケティングにおいて「モノからコトへ」、「受発信から双方向(ソーシャル)へ」などのコンセプトが注目を集めているが、ここまで突き詰めて考えると、こうしたコンセプトは消費社会に元来埋め込まれた性質であることが分かる。

 

新しい消費価値のあり方

「柔らかい個人主義」時代における新しい消費価値とは、例えばどういうことか。著者は、ひとつの例としてサービス産業を取り上げている。サービス産業は、提供する商品が無形なだけで、商品を売るという意味では製造業と同じだ。しかし、例えば美容院で髪を切ってもらうとき、そこには商品の提供以上の価値が存在する。それは、奉仕を受けているという実感や、馴染みの美容師とのコミュニケーションの楽しさだ。

その他にも、「精神産業」(=「外胚葉産業」)や五感を刺激する「コンニャク情報」など、「純粋な物質的快楽」を超えた、新しい消費価値のあり方について面白い考察がされており、マーケッター視点でも様々な発見がある。

いはば、前産業化時代の社会において、大多数の人間が「誰でもない人(ノーボディー)」であったとすれば、産業化時代の民主社会においては、それがひとしなみに尊重され、しかし、ひとしなみにしか扱はれない「誰でもよい人(エニボディー)」に変った、といへるだらう。(中略)これにたいして、いまや多くの人々が自分を「誰かである人(サムボディー)」として主張し、それがまた現実に応へられる場所を備へた社会がうまれつつある、といへる。

 

消費社会に生きるという課題

しかし、問題は、消費の先に本当の個人の充実があるとは限らないということだ。「ここにしかない」「自分だけ」などと、消費に特別な思いを込められるうちはいいのだが、いわゆる国道16号線的風景が日本全国に広がり、消費社会の平坦さに気づいてしまうと消費に支えられたアイデンティティは崩れてしまうからだ。

本書が書かれた1970年代は、消費の特別さがまだまだ残っていた時代だと思うが、著者は既にこの点についても、千里眼的な分析を行っている。一言で言えば、顔の見える相手とつながっていたいという「接続志向」だ。この「接続志向」は、大衆が国以外に帰属できる集団を見つける可能性に通じると同時に、「見られていないかもしれない」恐怖で、“今ここにいる私”の拠り所が無限後退するリスクをはらんでいることを、僕たちは意識する必要がある。

われわれが予兆を見つつある変化は、ひと言でいへば、より柔らかで、小規模な単位からなる組織の台頭であり、いひかへれば、抽象的な組織のシステムよりも、個人の顔の見える人間関係が重視される社会の到来である。そして、将来、より多くの人々がこの柔らかな集団に帰属し、具体的な隣人の顔を見ながら生き始めた時、われわれは初めて、産業か時代の社会とは歴然と違ふ社会に住むことにならう。



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