黒と茶の幻想

黒と茶の幻想 (上) (講談社文庫) 黒と茶の幻想 (下) (講談社文庫)

恩田陸小説の中でも、講談社から出版されている『三月は深き紅の淵を』にはじまるシリーズは、特に面白い。

シリーズの各作品で描かれるストーリー自体はまるで違うのだが、登場人物がどこかで重なり合っており、

また、そこに醸し出される登場人物たちの“陰”のようなものが共通して通奏低音している。

今作では、前作 『麦の海に沈む果実』に登場した「梶原憂理」の同級生4人の心理描写を中心に物語は展開する。

屋久島と思われる「Y島」に出かけた4人は、杉の木を見に、夜明け前から山を登り出す。

前のヤツの背中を追いかけながら、疲労の蓄積した足を引き上げ、引き上げ、ただ夢中に山を登る。

あくまで何の事件も起きない、淡々とした情景描写と、各章で入れ替わる主役の心理描写。

ただそれだけで構成されるにも関わらず、いやだからこそ、4人の間の手探りのような気持ちの探り合いが、

妙に生々しく伝わってくるのだ。

 

人は誰しも多重人格的な存在である。

今まさに直面している状況に喜怒哀楽しながら、同時に過去を思い出したり、全然別の事がらを妄想したりする。

例えば、旅行を素直に楽しみながら、それと全く矛盾せずに、同級生の恋愛に対して嫉妬する。

人はこのような、一筋縄では語れない、いくつもの絡まりあった感情の中に生きている。

この物語がリアルなのは、彼らの振る舞い、台詞回しがまさにそれを感じさせるからである。

人間の心とはなんと器用で複雑なものなのだろう。

今この場にも、何層もの感情がそれぞれの心に沈んでいるはずだ。

それでもこうして別の心を演じられる。

今は友人たちの楽しい朝食の場面を演じられる。

演じているのに楽しいとすら感じられてしまう。

愛も憎悪も疑惑も同じ場所を流れているというのに。

 

大学を卒業して10年は経たであろう彼らは、すでに「いい大人」になっていて、さまざまな心の痛みも経験してきた。

それでも社会的に振舞うことを覚え、世の中と折り合って生きていくことを覚えた彼ら。

だから、旅行中の会話は、誰しも仲間内での“自分像”の範囲を無意識にキープしている。

しかし、お互いに他愛もない会話をする中で、「利枝子」はかつての恋人「蒔生」と親友「梶原憂理」のことを。

「彰彦」は親友「蒔生」と「利枝子」、自分の姉「紫織」のことを。「蒔生」は「紫織」と「梶原憂理」のことを。

「節子」は幼馴染の「蒔生」と夫、義父のことを。と、それぞれが心では過去の痛みに思いを馳せていく。

考えても考えても葛藤に出口はなく、どこまでいっても純粋な幸せになど辿り着くことはできない彼ら。

4人は、一緒に旅をしたことで、かえって互いの乗り越えられない“壁”を目の当たりにし、孤独になっていく。

 

彼らを待つのは、痛みと向き合っていく“終わりなき日常”だ。この感覚は非常に分かる。

しかし、ラストシーンで、彼らの心が行き着くところまで行った先に、

諦めに似た開放感が自然と満ちていったという感覚も、同時によく分かる気がしている。

あたしは汗を拭い、歯を食いしばって登りながらも、かすかに笑っていたように思う。

生きていくことの滑稽さや、面倒くささや、みみっちさがおかしかった。

自分で望んでここまでやってきたのに、その自分を罵る自分が愉快だった。

なんでこんな状況で愉快な気持ちになれるのか。この逆説こそ、人間の強かさなのかもしれない。

緩慢な絶望の中に、かすかな希望を見出した彼らの姿に、どこか勇気づけられる作品だ。



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