アメリカン・マインドの終焉

Closing of the American Mind: How Higher Education Has Failed Democracy and Impoverished the Souls of Today's StudentsClosing_of_the_American_Mind

「終わりなき日常」への慧眼

著者アラン・ブルームは、大学教授としてイェールやシカゴなどで教鞭をとる中で感じた、

最近の学生に対する違和感や不満をつらつらと綴るところから本書をスタートする。

曰く、ろくな本を読まない、従順で覇気がない云々。このあたりは日本の近頃の若者論と大差ない。

しかし、よく読むと、アメリカの世相を映し出す的確な分析が散りばめられていることに気付く。

そのエッセンスを一言で言うと、“アメリカ社会が抱える相対主義的な無気力さ”だ。

近代以降の社会では、かつてオルテガが喝破したように、現在は過去に勝るという認識が広がり、

大衆は過去との照らし合わせでなく、“今ここ”の選択肢の相対比較でよりよきものを目指そうとする。

ロックミュージックもファッションも現代思想も、全てが相対的に比較され、消費されていく。

この延々と続く「終わりなき日常」は、本当に僕らの幸せにつながっているのだろうか。

常に今を生きる所在のなさは、どこかで僕らのやるせなさにつながってしまってないか。

1980年代のアメリカを対象にしたブルームの分析は、現代の日本にも十分に読み替えられる議論だ。

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アメリカの相対主義の行き着いたところ

もちろん、アメリカで起きた価値相対主義ブームが残した成果も大きい。

例えば、インディアンやファーイーストの文化、女性、黒人などのマイノリティをもう一度見つめ直し、

正当な評価を与えようというムーブメントは、価値相対主義の積極的な効果だと言えるだろう。

しかし著者は、価値相対主義にはホッブズの「自然状態」を生み出した側面があったと指摘する。

つまり、全ての価値を尊重的=無批判的に認めると、物事の善悪は“あなた次第”になるため、

集団としてのアイデンティティのない、「万人の万人に対する闘争」になるわけだ。

仮に集団が成立したとしても、非常に小さなオタク的島宇宙にしかなり得ない

アメリカで1980年代にマイナーだったサブカルチャーがメインストリーム化したのも必然だ。

理性的なクラシック音楽と、感覚を刺激するロックやフリーセックスの共存も全然OK。

どんなものも“~文化”と呼んでしまえば認められる。そんな風潮だ。

神ですら相対主義によって“スタイル”になることで「死んだ」(ニーチェ)のである。

 

相対主義ゆえの孤独

ここまで論じた上で、著者は読者に対し、強いメッセージを送る。

計算をこととする理性が行き着く先は、結局、共同体の形成を行わず、共同体を
支える価値も持たない、心情もなければ魂も欠いた、無味乾燥な管理であろう。

一方、感情はうわべだけの快楽に利己主義的におぼれる結果に陥るだろう。
政治的傾倒は、ファナティズムを助長する傾きがあるだろう。

そのとき、人間に価値定立を行う十分な力が残されているかどうか、それは疑問である。

個々人が自由に判断していても、世の中全体もよりよくなっていると思える間は幸せだが、

政治・経済・社会が陰り始めた時、一番割を食うのは剥き出しになった個人である。

内心で所属の対象を求め出した個人は、オウム真理教を思い出せばお分かりの通り、

バックラッシュのように安易な帰依にすら縋り付かざるを得ないところに追い込まれていく。

どうやら相対主義を手放しで礼賛していられる時期は、既に過ぎてしまったようだ。

 

相対主義を乗り越えるには

僕らの目の前にあるのは、近代以前に戻ればいいという単純な問題ではなく、

相対主義の再帰性を自覚しながらも、相対主義を超えた価値を敢えて見出す挑戦だ。

著者は、その挑戦のひとつとして、大学が果たすべき役割に注目する。

つまり、古典が現代に投げかける意味を問い直す場として、大学を機能させようというのだ。

選択という語がまだいくらかの形態をとどめ一貫性を保っていたときには、
困難な選択とは、苦悩や他人の非難、追放や刑罰や罪責間といった形をとる
困難な諸帰結を受け入れることを意味していた。

こういうこと抜きには、選択に意味があるとは信じられていなかったのだ。
何が真に重要なのかを主張するためにその帰結も受け入れたからこそ、
アンチゴネーは気高いのだ。

そうした“引き受ける覚悟”を伝播させる仕掛けを、大学以外でもいかに増やしていけるか。

 現代日本が受け止めるべきブルームの示唆は多い。



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