権利のための闘争

権利のための闘争 (岩波文庫) Der Kampf ums Recht

権利のためになぜ闘うのか

1872年に発表された『権利のための闘争』は、法学において今でもテキストに使われる古典だ。本書を象徴するのが、冒頭に掲げられる以下のメッセージである。

権利=法の目標は平和であり、そのための手段は闘争である。

本書の著者、ドイツの法哲学者ルドルフ・フォン・イェーリングは、法をこのように位置づけ、「権利=法」を機能させるには、僕たちの不断の義務意識が必要であることを説いた。イェーリングは、この“義務”に「“義務”を果たさない国民には権利はないぞ」という国民への教条的な意味も込めたとは思うが、そこだけを捉えるのは理解として浅い。国民が「権利=法」を守る意識が国に対して“義務”を課すという立憲主義の本質から見ても、イェーリングの主張は、近代以降の法概念を理解する重要なコンセプトだと思う。

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イェーリングは、大きく2つのレイヤーから「権利=法」の意義を論じている。

Layer1:個人の人格を成立させるための「権利=法」

Layer2:個人が集まるところの国家を成立させるための「権利=法」

 

Layer1:個人の人格を成立させるための「権利=法」

いわゆる訴訟という話になると、経済的な損害を回復する“損得”の話を想起しやすい。しかし、例えば自分の所有物を窃盗された場合、盗られたものが訴訟費用に比べて僅少なものであったら原告として訴えを取り下げるのが合理的な判断と言えるだろうか。

イェーリングは、たとえそうであっても訴えて権利を主張すべきだと強調する。権利は“損得”に基づくものではなく、社会に生きる個人として守られるべき自然権だからだ。もちろん、自然権にも色々な解釈はあるが、少なくとも僕たちが感じる自らの権利を侵されたという倫理的感覚をひとつの根拠としている。

私たちは自分の権利を明らかに侵害されたとき、それに対して抵抗しなければならない。これは個人的な趣味の問題などではない。そうした見方は権利の本質を見誤っている。(中略)確かに一般の人は所有権などについての法律的な知識はもっていない。しかしそういった権利が自分の倫理的な生にとって重要であることを、人びとは倫理的苦痛によって感覚的に了解している。この倫理的苦痛が人びとをして倫理的自己保存へと立ち上がらせるのだ。

 

Layer2:国家を成立させるための「権利=法」

イェーリングは、Layer1で示したような個人の「権利=法」感覚があってこそ、国家は成立するという。つまり、近代法というはあくまで抽象的理念であり、個人が権利を意識的に主張することでこそ立憲主義における国家と個人の関係を活性化することができるというわけだ。もし権利を侵されたまま何らの手段にも訴えないと、それは個人が自然権を侵害されるだけでなく、国家というものの成立に対して侵害が生じていることと同じだということだ。

日本という国は、闘争によって権利を勝ち取るような血なまぐさい歴史を持っているわけではない。だからこそ、自民党の憲法改正案など、国家が個人に“義務”を課すという不思議な逆転現象が何の疑いもなく提示されていることに、もっと敏感になる必要があるのではないか。イェーリングの指摘は、法が単なる“物知りの知識”でしかないこの国において、個々人が自分事化(レリバンシー)して考えるべきテーマであることを改めて教えている。

世界中のすべての権利=法は闘い取られたものである。重要な法命題はすべて、まずこれに逆らう者から闘い取られねばならなかった。また、あらゆる権利=法は、一国民のそれも個人のそれも、いつでもそれを貫く用意があるということを前提としている。権利=法は、単なる思想ではなく、生き生きした力なのである。



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