自殺について

自殺について 他四篇 (岩波文庫) Die Welt als Wille und Vorstellung: Vollstaendige Ausgabe nach der dritten, verbesserten und betraechtlich vermehrten Auflage von 1859

消極的哲学の積極的意味

『自殺について』というタイトルに、ちょっと敬遠してしまうかもしれない。しかし、ショウペンハウエルは「生きる」ということを照らし出すために、あえて「自殺」を扱った。人はなぜ「自殺」をするのか? 「自殺」で得られるものとは何なのか?だとすると、それを得られない今ここに「生きる」ことに何の意味があるのか?そうやって“?”を積み重ねていくと、「生きる」ことの積極的な意味が消極的に表れてくる。そんなペシミズムの真髄とも言うべき面白い哲学だ。

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意志には目的がない?

本書は、もともと主著『意志と表象としての世界』の「付録と補遺」として収められていた論稿だ。したがって、本書を理解するには、『意志と表象としての世界』のさわりは押さえておく必要がある。一番のポイントは、なんと言っても「意志には目的がない」ことをスターティングポイントにしたことだ。

僕たちが生きているのはあくまで表象であって、世界は僕たちに関係なく無目的に存在する。プラトンの「洞窟の比喩」のように、今ここにとらわれると、この本質を見落としてしまう。ショウペンハウエルは、このように「私」(われ)と「世界」(それ)を分けることで「私」を見出すデカルト以来の哲学を180度転換する重大な哲学的チャレンジを仕掛けたわけだが、「意志には目的がない」と言い切られると、生きている意味がないようにも聞こえる。が、それが現実だ。

 

自殺こそ正しい行為?

「意志には目的がない」という視点に立つと、実は「自殺」は本質に戻る行為とも言える。「死」は、「君が死んだ後には、君が生れる前に君があったところのものに、君はなること」なのだ。今ここに生きる僕たちは、時間や物理といった因果に縛られて生きている。また、性欲、食欲、睡眠欲といった新陳代謝や、苦悩や苦痛という表象に突き動かされている。幸福ですら、あくまで「積極的苦悩の欠如」であって、そうした苦痛の一時的緩和に執着するくらいなら、「死」の方がよほど本質に近いと言えるのではないか。

ショウペンハウエルは、このようにペシミズムを徹底していく。しかし、「だからショウペンハウエルは自殺を肯定している」などと結論づけるのは短絡的だ。ショウペンハウエルの意図は、さらにこの先にあるからだ。

 

敢えて生きる覚悟

ショウペンハウエルの言うとおり、確かに「自殺」と本質には類似性があるかもしれない。しかし、彼は安易に自殺を肯定したりはしない。

自殺はこの悲哀の世界からの真実の救済の代わりに、単なる仮象的な救済を差し出すことによって、最高の倫理的目標への到達に反抗することになる。

彼は、苦痛を抱える人間の「余りにも必要な最後の避難所」として「自殺」を許容しながらも、苦痛に満ちたこの世界で、今や表象に過ぎないと分かった「今ここ」を敢えてどう生きるかと向き合うことこそ、その人の生き様を決める重要な問題だと考えたのだ。彼の「世界は私の表象である」という有名な言葉は、こうした文脈の中で、結局、僕たちが主観の中でどう生きるかでしかないという覚悟を見事に表現している。

では、仏教で言う「一切皆苦」のこの世を、僕たちはどう生きればいいのか。生きている意味を徹底的に否定しておいて、一体どうしろと言うのか・・・。実はもう答えは出ている。キーワードは「共約可能性」だ。

 

苦痛があるからこその共感

今ここに生きる僕たちは、「一切皆苦」という状況を共有している。誰もが日々、いろんなことに悩み、落ち込み、生きている意味があるのかと彷徨っている。そこに気づいた瞬間に、家族や友人だけでなく、自分は関係ないと思っていた赤の他人でさえ同じように悩みを抱えて必死に生きていることに、共感できるようになるのではないか。

このような「苦痛」を共通言語にした「共約可能性」、この一点に彼は望みを託したのだと思う。だから、彼はそこに「寛容・忍耐・同情・隣人愛」の可能性を見出すだけでなく、義務とすら考えた。徹底的にペシミズムを追求した先に“救い”を見たショウペンハウエルの思いには、今ここを生きる1人として強く共感を覚えた。



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