国家論 日本社会をどう強化するか

国家論―日本社会をどう強化するか (NHKブックス)

国家論にまつわる議論のモンタージュ

経済がグローバル化し、交通やインターネットによりコミュニケーションのハードルが低くなる一方で、9.11以降の米国のネーションステートを巡る争いや、中韓との間で噴出する日本の愛国論など、国家という単位を強化するような眼差しが、かえって目立ってきている気がする。国家という機能は、僕らにとって何を果たす装置なのだろうか。民族や社会、その他のコミュニティとの違いを踏まえ、国家とどのように付き合っていけばよいのか。こうした根源的な問題意識に立ち返ることが、要請されているのではないだろうか。

佐藤優は、僕らと国家の関係性を紐解く文献をモンタージュし、国家観を形作っていく。本書は複数回の講義をまとめたものであり、もともとは各回でそれぞれマルクス、宇野弘蔵、スターリン、柄谷行人、ゲルナー、バルト、聖書とテキストを替えて一話完結的に講義をしたのだろう。そのため、それらを後からつなげたストーリーは必ずしも一貫性がなく、小話まで混ぜているからロジックを追うのに骨が折れるが、所々には国家論を読み解くヒントが隠されていると思う。

 

国家を成立させているダイナミズム

上記の状況なので、ここでは著者が強調するポイントに絞って、僕の理解を共有したいと思う。そもそも、国家とは、社会とは必ずしもイコールでない、人為的で仮設的な存在である。しかし、なぜこのような存在が生まれ、なぜ僕らは時折国家を個人や社会に優先させるのか。この理解が出発点となる。著者が様々な文献を読み込む中で見出した要素は、大きく4つに集約される。

→貨幣経済に対する信頼の付与や、資本主義に対する規制の役回り。その意味で国家と資本主義は共犯関係

→資本主義では取りこぼしてしまうフェールセーフ機能や、個人やコミュニティで担い切れない公共インフラを担う

→自らの帰属する集団、特に土地と結びついたネーションステート(民族=国家)意識の延長線上にある国家

→鶏と卵ではあるが、他国とのパワーバランスの折衝にあたるには国家が必要

要するに国家は、民族、経済、政治など様々な点で、現代社会そのものも裏書する存在だ。

 

国家に内在する“暴力性”

上記の国家観は、国家には“良い国家”だけでなく“悪い国家”が存在することを示している。つまり、国家は一度成立すると“自己保存”に働きやすく、行き過ぎた愛郷主義が生むファシズムや、経済格差に対する恣意的な手当てなど、国家の利益のために個人や社会に対して“収奪”が起き得る。

著者は、読者に対してこの国家の“暴力性”について敏感たれということを強く主張していく。このことは、「一人ひとりがバラバラにされ、他者や外部世界に対する想像力が弱って」いて、かつ「脆弱なノリ」の共同性」(宮台真司)でしかない日本において、強調してもし過ぎることはない。社会の流動性が高まると、ナショナリズムによる操作に感応しやすいことは、僕ら日本人が何度も経験していることではないだろうか。

 

社会の側から国家を強化する態度

著者は、このような“暴力的”な国家に対する付き合い方のポイントとして、聖書の“原罪”の議論を下敷きに、“良い国家で対抗するのではなく、社会の側から国家を強化する態度”を提唱する。革命によって良い国家を志向しても、どこかで「自己絶対化の契機」に陥ることを危惧してのことだ。

国家を国家の論理では規制できないので、国家にとって外部にある社会の力によって規制し、それによって強い社会と強い国家を作り出していくというのが、私の考える処方箋です。

このあたりは、コミュニタリアニズムが“社会の紐帯”を強調していることに加え、新自由主義においても小さい政府を補完する機能として、結果的に“社会の紐帯”に目を向けている状況とも符合する。著者が最後に付言している点が、この“社会の紐帯”再構築の議論にとって重要な指摘である。

究極以前の世界の中の争いごとにしか関心をもたず、究極的なものに思いが至らなくなっていることに最大の問題がある。

究極的なもの(愛・平和)と究極以前のもの(国家・社会・家族・会社)を区別し、究極的なものに対する眼差しをもって究極以前のものをチェックしていく。これが佐藤優の“右翼”としてのスタンスだ。



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