熱狂なきファシズム ニッポンの無関心を観察する

熱狂なきファシズム: ニッポンの無関心を観察する

根拠のない自信過剰

(前文(抜粋))
日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。

冒頭に引用したのは、圧倒的政権与党である自由民主党による日本国憲法改正草案だ。自由民主党は、「自主憲法の制定」を使命として掲げており、特に現在の安倍首相は「日本らしさを踏まえ、自らが作る日本国憲法」に強い拘りを持っている。その拘りが端的に表れているのが、この憲法前文案だと思う。それは、国の国民に対する約束という憲法の前提をまるっきりひっくり返して、国民が国に対して奉仕することをルール化するというウルトラC(もちろん皮肉)だ。

当然、僕たちもバカではないし、そう簡単に不適切な改憲は通すはずがないと思っている。しかし、いざという時に、本当に止めることはできるのだろうか。

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(国民の責務)
第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。
日本国憲法改正草案(自由民主党)

 

ゆでガエル式ファシズム

観察映画の監督である想田和弘は、本書を通じて、今の日本社会のあり方では、不適切な改憲を止めることはできないだろうと声を大にして訴えている。本書はエッセイの寄せ厚めなので、内容が重複するようなエッセイが多く、正直物足りないのだが、その着眼点の面白さは注目できると思う。それを象徴するのが、「熱狂なきファシズム」という今日の状況だ。

著者が捉えたのは、敵を作って正面からやっつける「橋下政治」と違い、「安倍政治」は明らかに意図的にじわじわと民主主義を壊しているということ。僕たちが関心がない、頼れる人がいないと言えば言うほど、国民投票は通りやすいし、『永遠の0』のように、感情移入や親近感で知らないうちに巻き取られている。この構造に意識的に抗わない限り、侵食は止まらないだろう。

ファシズムに「熱狂」は必ずしも必要ないのではないか。むしろ現代的なファシズムは、現代的な植民地支配のごとく、目に見えにくいし、実感しにくい。人々の無関心と「否認」の中、みんなに気づかれないうちに、低温火傷のごとくじわじわと静かに進行するものなのではないか。僕は「熱狂なきファシズム」という造語に、そのような認識とステイトメントを込めたのである。

 

引き受ける覚悟の感覚

では、日本の大衆に足りないものは、一体何か。著者が指摘したことは、当事者性への鈍感さ(消費者であることへの慣れ)に集約される。僕たちは、自らを民主主義を作り上げていく能動的な主体であることが求められてこなかったしたがって、政治家が提供する政治サービスを票と税金を対価として消費する受動的な「消費者」であれば済んできた部分が大きい気がする。「任せる」政治から「引き受ける」政治へ。この意識が日本には決定的に欠けている。

そうは言っても、じゃあ明日から何をすればいいのか、というのが実態ではないだろうか。そこで、著者は自身が取り組む「観察映画」の手法で、読者の当事者意識を喚起する。本書の半分が観察映画そのものの話なので、少々退屈な部分はあったが、それでも、台本を持たず、観察対象と関わることの覚悟が求められる観察映画を通して、当事者意識とは何物か、自然と理解できたような気がしている。

「観察」の対義語は、「無関心」ではないかと、ある人が言った。僕は、なるほど、と同意する。観察は、他者に関心を持ち、その世界をよく観、よく耳を傾けることである。それはすなわち、自分自身を見直すことにもつながる。観察は究極的には、自分も含めた世界の観察(参与観察)にならざるをえない。



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