ゴーマニズム宣言1~9

ゴーマニズム宣言〈1〉 (幻冬舎文庫)

『ゴーマニズム宣言』とは何だったのか?

雑誌「SPA!」での連載開始直後から現在まで、絶大な人気を誇る小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』。部落解放同盟、薬害エイズ、オウム真理教、歴史教科書、天皇・皇室など、大手メディアが触れなかったテーマを扱ったこのシリーズは、誰も声を上げて指摘しなかったこの国の矛盾を読者に気づかせる大きな役割を果たしてくれたと思う。

もちろん、なかには勢いで畳み掛ける発言(テロに対して「敢然と立ち向かう」じゃ小泉首相の「断固たる」従米と変わらないのでは)や、批判のための批判で途中飽きてしまったところもあった(特に後半の絓秀実・永尾カルビや「噂の真相」への批判は半分うちわネタにすぎないのでは)。そういう粗さも「ギャグ」なのかもしれないが、それを言ったら全て「ギャグ」で片づけられてしまう。だから、そういう批判があったのは然るべきだと思う。

それでも、読者に賛否の表明を求めるメッセージが必ず込められていた本書で、単なるコメンテーター的発言に飽き飽きしていた読者をひきつけた。人々が掲げる「平和」や「平等」がいかに浅はかで、実は見て見ぬふりに過ぎないのでは。そんな物事を表面的に済ませようとする「空気」が蔓延っているからこそ、敢えてリスクを覚悟で言うべきことがあるのではないか。だからこそゴーマンな発言は避けらげないという作者の問題意識が多数の共感を得たことの意味は大きい。

ゴーマニズム宣言

日本社会を覆う「空気」に抗えるか?

全9巻の中で特に印象に残ったテーマを挙げるとすれば、①差別を温存する似非平等主義の批判と、②現代社会における宗教の意義と怖さの2つである。

①差別を温存する似非平等主義

部落・同和の問題がここまで公に議論されるようになったのは『ゴーマニズム宣言』の大きな成果のひとつだろう。もちろん今の時代、特に若い世代の間で、部落の出自を理由に“積極的”に差別することは珍しくなった。しかし、本当に部落・同和の差別問題がなくなったのだろうか。作者は、「差別は悪い!」と叫ぶだけの似非平等主義が、差別を見えにくくしただけの構造を暴いている。

政府は「部落解放宣言」で問題は解決したと宣言し、教育は差別の現状を教えずに人間みな平等と訴え続け、メディアは自主規制で文脈など関係なく差別語を避けまってきた。そんな風に空気を平等で覆ったところで、その地域の住人にとって部落は部落であり、相手を攻撃するネット書き込みのネタであり続け、部落解放同盟と行政の癒着は温存された。

「差別は悪い!」そんなことは誰でも分かっている。でも、部落・同和に限らず、「ちびくろサンボ」の自主規制や嫌韓・中のブームなど、なぜ差別はなくならないのか。作者は「ダメ、ゼッタイ」とだけ叫ぶ潔癖主義こそが、何が差別になるのか、差別がどんな痛みを生むのかを想像できない“消極的”な差別を生み出していることを鋭く指摘している。

こうした「空気」だけで物事を解決しようという日本の奇妙な構造は、第二次世界大戦に対する総括が未だ出来ない状況をはじめ、この社会のいたるところで見られる根本的な問題である。誰かを傷つける可能性を感じながらも、自分で判断するという責任の重さに耐えられるか。「人間が自分の倫理の中でコトを避けるようにレベルアップしないと差別の根は断ち切れないぞ!みんな進化しろ!!」

②現代社会における宗教の意義と怖さ

『ゴーマニズム宣言』を最も有名にしたのは、オウム真理教に対して真っ向から立ち向かった一連の作品だろう。覚えている方も多いと思うが、当時は全国放送のテレビでオウム真理教の幹部がタレントのように連日出演し、宗教という新たな可能性に知識人も大衆も迎合していった。そんな中、『ゴーマニズム宣言』はそこに潜む危険性と犯罪を描いた数少ないメディアだった。小林よしのりがVXガスで暗殺されかけるという文字通り命がけの仕事は、「終わりなき日常」をカルト的ストーリーで埋め合わせることの無意味さを今でも教えてくれる。

オウム真理教の問題が難しいのは、一歩間違えば誰でも信者になっていた可能性があるということだ。今やオウム真理教に自分が騙されるなど、誰も想像できないだろう。しかし、オウム真理教に限らず、様々な新興宗教が信者を大量に獲得しているのも事実だ。もちろん、こうした新興宗教が全てオウム的であるとか、宗教自体が怪しいものだと言いたいのではない。むしろ、宗教が提示する物語の意義は積極的に肯定したい。しかし、その物語にコミットするからには、そこにある危険性にはよほど意識しておかなければならない。

作者も指摘する通り、宗教が提示する物語は現代社会が提示する価値観とは別次元のものである。だからこそ、人はそこに現代社会に欠落した価値を見出すのだが、反対に言えば、どんな宗教も法律を逸脱する可能性がある。実際、過去を振り返ってみれば分かるように、今や社会の内側にある仏教も、当時の政権との争いの歴史であった。9.11以降のテロとの戦いも、価値観の戦いである。

近代合理主義の果てを生きる僕たちは、生きることの価値を巡ってこれからもフラフラと歩み続けるしかない。その中で第2のオウム真理教を繰り返さないためには、自分を規律する冷静な価値判断の軸を見つけられるか次第なのである。常に危険な道を歩んでいることを自覚させてくれる本書は、ひとつの出発点になる。



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