新ゴーマニズム宣言スペシャル 戦争論1~3

新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論〈3〉

小林よしのりの『戦争論』は何を残したか

小林よしのりの『戦争論』は、海外を含めて大きな反響を巻き起こし、2005年現在で46刷もの版を重ねる大ヒットとなった。第二次世界大戦を中心とする日本の戦争を振り返り、帝国主義的な当時の日本に生きた人々の生き様を肯定してみせた本書は、平和な島社会に生きてきた今の日本人にとって大きなサプライズだった。「戦争を肯定するのか」と嫌悪感を抱く人、「よくぞ言ってくれた」と称賛する人、そして問題の大きさに態度を決めかねている大多数の人。様々な反応がうねりとなって、これほどのヒットにつながったのだと思う。

しかし、これだけの大ヒットにも関わらず、これからの国のあり方に関する前向きな議論につながらなかったのが残念だ。敢えて言えば、より拒絶反応を強めた「サヨク」と、極論化していった「ネトウヨ」を生んだだけではなかったか。なぜか。ひとつには、マンガで読者に訴えかけることで、インパクトを与えられる反面、短絡化して捉えられてしまった。もうひとつ、僕が重要だと思うのは、戦争と向き合わない日本人に対するメッセージを追求した結果、じゃあどうするの?(So What?)が足りなかったのではないか。

もちろん、これまで日本人が向き合ってこなかったタブーに対して、日本の空気に抗って問題を提起した本書は、それだけで一読の価値があると思う。日本社会を捉える作者の切り口は、何度読んでも面白い。一方で、国際社会におけるこれからの日本のあり方については、『戦争論』を通して見えてきたふわっとした方向性を僕なりに肉づけして消化しておきたい。ちなみに、個人的には『戦争論1』を読めば議論の骨格を理解するには十分だと思う。

ゴーマニズム宣言_戦争論

僕たちが見落としがちな道徳的価値観への思慮

なぜ今、戦争について考える必要があるのか? 『戦争論』を単なる戦争賛美として誤解しないためにも、ここを掴んでおく必要がある。

『戦争論』の出発点は、日本社会の「公」意識に対する作者の疑問から始まる。ここで言う「公」とは、他人からの視線を意識した振る舞い、また社会に対する道徳・道義のことを指す。平和を「消費」することばかり肥大した日本的「個人主義」が蔓延する社会。公共の場で迷惑を省みない若者・大人、援助交際という名の売春、「人を殺してみたかった」という動機の殺人、私利私欲に堕する経営者・官僚たち・・・。誰も「公」など意識しないのが今の日本社会だ。

「最近のヤツは」的なオヤジのグチと捉えられるかもしれない。しかし、こうした消費社会的価値観で未来が描けていた経済成長の時代はよかったかもしれないが、成長が限界をむかえる中、消費に価値を見いだせなくなったフラストレーションが、様々な歪みとして無視できない程度まで大きくなっているのが「今ここ」なのではないだろうか。こうした「終わりなき日常」問題は、もちろん日本に限った話ではない。しかし、問題を深刻化させている日本特有の構造がある。それが、日米関係である。

なぜ日米関係か。日米関係とは、端的に言えば安全保障の問題である。日本はこの国を守るという「公」の根本の議論をアメリカに預けたままになっている。日米地位協定を見れば分かる通り、この構造は日本の敗戦以来、面白いくらい何ひとつ変わってこなかった。だから、今、改めて消費的価値以外に足場を探そうとした時に、僕たちには経済的利害関係以外に社会との関わりが何もないことに気づいて愕然とするのである。小林よしのりは、こうした日本社会の胡散臭さを徹底的に暴き、単なる従米ポチ路線でしかない現代の日本人の「公」意識を、戦争を勇敢に戦った日本人の姿から照射していく。

 

戦前的価値観(帝国主義)の称揚⇒戦後的価値観(民主主義)の否定

こうした小林の眼差しは、日本人の目を覚まさせる意味で重要な意味を持つと思う。自虐史観が無意味なのは分かった。しかし、この議論が問題なのは、どこまで行っても前に進まない構図になっていることだ。戦前に生きた祖先に敬意を表すること自体は、何もとがめられることではない。しかし、戦前的価値観(帝国主義)を称揚すればするほど、戦前を引き継いで戦後をつくろうとすればするほど、戦後の国際秩序を否定することになるというジレンマ(ねじれ)を抱えているのである。

戦前に生きた日本人の勇姿をいくら描こうと、そうした日本人の姿がアジアの国々から尊敬されていることをいくら語ろうと、欧米の掲げる民主主義が実はevilである側面をいくら暴こうと、民族の枠組みの中で「すごい・すごくない合戦」をしているに過ぎない。それでは、作者が言う「物語」(われわれはこれを大切にするという大義)の水掛け論になってしまう。視点を一段引き上げて、個々の「物語」の枠組みを超えて両者が共軛可能になるにはどうすればいいか、という世界秩序(World Order)の次元で議論しなければ物事は進まないのではないだろうか。

もちろん、『戦争論』でもこのレイヤーの議論について何も語っていないわけではない。戦争行動をしばるには、国際法(国連憲章)を機能させることが不可欠である点にも言及している。しかし、あくまでそこまでであり、どうやって機能させるのか、そこに日本としてどう関わっていけるのかに踏み込んだ議論はなかった。『戦争論』に続くストーリーがあるとすれば、ここから始まるのではないだろうか。



この本についてひとこと