成長から成熟へ さよなら経済大国

成長から成熟へ さよなら経済大国 (集英社新書)

広告=消費社会の質的変化を追う

天野祐吉は、博報堂を経て『広告批評』編集長として社会を見つめてきた、広告史の第一人者である。そんな彼が亡くなる直前に、60年間を振り返り、消費社会の行く末に対する雑感を綴ったのが本書だ。大まかな趣旨は、タイトルの通り、需要喚起で消費を作り出してきた「成長」型の社会が限界を迎えている現状を認識した上で、「成熟」型ならではの社会への「引越し」の方向性を読者に問いかけるものである。

このようにスジだけ追うと、一見よくありがちな“反資本主義”的な議論のように思えるが、具体的な広告という「窓」を通じて、消費の変遷を著者ならではの観点で捉えなおしている点や、消費社会の代表選手のような広告が、これからの成熟社会とどう付き合っていくべきかを提示している点で、新しい発見のあるエッセイだと思う。

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供給者の論理と消費社会

著者は冒頭で、ショッキングなドキュメンタリー番組(「電球をめぐる陰謀」)を紹介する。主人公はスペインの少年。彼は壊れたプリンタを抱えて修理屋を回るが、どこの店も買い替えを薦める。修理にこだわる少年は、ネットで調べるうちに、なんとメーカーがプリンタの寿命を決めている事実を知る。

いわゆる「計画的廃品化(Planned Obsolescence)」と呼ばれる、購買需要の意図的な喚起策である。これは特殊な事例ではない。ヨーロッパでは電球寿命を1,000時間とした大規模なカルテルもあった。消費社会の成熟化に悩んだ供給者は、こうして需要を人工的に創出する手法を見つけたわけである。

この「品質の廃品化」のほか、iPhoneの新商品化(Tick-Tock Model)のような「機能の廃品化」、アパレルによる毎年のトレンド作りに見られる「欲望の廃品化」を加えた3つの視点から、供給と広告がタッグを組んで消費を創り出してきた消費社会の暴力性を、著者は更に提示していく。

消費社会が行き着いた姿とは

分かりやすい古典的なケースで言えば、なんといってもT型フォードに対抗したGMのストーリーが有名だ。ワンモデル・ワンカラーで低価格なT型フォードがひとしきり普及した後、GMはカラフルでスタイリッシュなデザインを売る手法で、あっという間に4,000万台を売ったフォードを抜き去ってしまう。GMの重役は「広告の目的はできるだけ多くの人に、いま持っている物に不満を抱かせることだ」と語ったと言われている。これはまさに「機能」や「欲望」の廃品化に則ったやり方だったと言えよう。

他にも、資生堂やカネボウによるセンスの差異化や、キンチョウがナンセンス広告に行き着いた理由など、著者は、供給の論理が消費を突き動かし、徐々にやりつくしていくようすを分かりやすく示していく。そうしてモノを買い続けるように“教育”されてしまった僕たちは、正月に「福袋」を求める何千人もの行列に象徴されるように、「欲しいものはないが、何かが買いたい」という本末転倒に行き着いてしまったのではないかという著者の指摘は、ずしんとくるものがある。

 

消費社会のあり方を問う広告

一方で、そんな消費社会の矛盾に反抗するかのような優れた広告もある。例えば、著者お気に入りのトリスウイスキーの広告(1961年)は、生活者の正直な気持ちを代弁する。

「人間」らしくやりたいナ
トリスを飲んで「人間」らしくやりたいナ
「人間」なんだからナ

他にも糸井重里の「おいしい生活。」(西武百貨店)や石岡瑛子の「裸を見るな。裸になれ。」(パルコ)など、大ヒット広告の裏に、「買って下さい」の胡散臭さを超えて、<消費者>ではなく<生活者>の「そうだよね」にこたえられたことが、多くの共感を得られた背景であることを、著者は指摘している。著者は、100の広告のうち、99が供給の論理にまみれたどうしようもないものだと嘆きながらも、このような1の光る広告があるからこそ、広告が持つ力を信じ続けたのだろう。

 

これからの広告=消費社会への提言

以上の観察を踏まえて著者が主張するのは、ビンボー(≠貧乏)で充実した社会への転換だ。ビンボーと聞くと、反射的に不自由な生活をイメージしがちだが、昔の中国の皇帝が、芸術作品を一品、二品と呼んだ格付けとは別に、正統的ではないが優れた作品も「別品」として重宝したというエピソードを読者に紹介している。

もちろん、成長社会から成熟社会にパラダイムを転換するには、現実的には様々なギャップがあり、それらをどうランディングさせていくかという難しい議論は解決しなければいけない。しかし、1の光る広告が打ち出したような、いきいきとした生活のクリエイティブを根付かせていくことで、消費以外に帰属できる価値観を多様化させていかなければならない必要性に変わりはないと思う。

「心と心をつなぐ」だの、「自然とともに生きる」だのと口先で言うだけで、実際は“生きづらさのコントロールを行う癒しの一形態”に終わらせるのではなく、メーカーと協力しながら夢を実現化する上での障害を取り除いていくことが、必ずしもできないとは限りません。これからの広告に可能性があるとすれば、夢の現実化のためのアイデアを出したり、実現のために集まった人びとの運動を支援したりするようなところにあるんじゃないでしょうか。



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