風の歌を聴け

風の歌を聴け (講談社文庫)

語られないことに物語がある

高校から大学にかけて、僕は一時期、村上春樹の作品にはまっていた。正直なところ、台詞も回りくどく、登場人物の感情も平坦な村上春樹作品のどこにどう感動したのか分からなかったのだが、それでも読み終わったときに感じる“心の澱”(何とも言えないすっきりしないもの)が不思議と忘れられず、エッセイを含め、片っ端から読み漁っていたのが懐かしい。今、改めてデビュー作である『風の歌を聴け』について書くことで、その心の澱が何だったのか、村上春樹作品のどこが僕にうったえてきたのか、一度言葉にしてみたいと思う。

今、僕は語ろうと思う。

 

「僕」を通り抜けていった物語

『風の歌を聴け』は、20代最後の年を迎えた「僕」が、1970年夏のことを綴った物語だ。東京の大学に通う「僕」は、大学で知り合い、付き合っていた女性が自殺したことがきっかけで、夏休みの間、友人の「鼠」とジェイズ・バーでビールを飲み明かしていた。ある日、「僕」はバーの洗面所に倒れていた「小指のない女の子」を介抱し、彼女とその後レコード屋で偶然再会して以来、港の近くにあるレストランで食事をしたりするようになる。そんな彼女は、ある夕暮れに僕にこう言った。

一人でじっとしていると、いろんな人が話しかけてくるのが聞こえる

そしてアパートにつくと、中絶したばかりであることを「僕」に告げたのだった。

僕が正直になろうとすればするほど、正確な言葉は闇の奥深くへと沈みこんでいく。

 

自分を物語ることの痛み

この物語のあらすじは、こうもあっさりしたものだ。なのに、なぜ、どこに面白さを感じるのか。ひとつには、「僕」の声にならない内に秘めた悲痛を知らぬうちに感じていたからだと思う。この物語は、実は何も起きていないように見えて、「僕」の中で変化が起きていたのだ。この点は、村上春樹作品の解説で有名な石原千秋教授(早稲田大学)の講義で気づいた。

ポイントは「僕」のトラウマと、「鼠」と「小指のない女の子」の関係だ。「僕」は「三番目に寝た女の子」の自殺で心に深い傷を負っており、その療養として文章を書いていた。その最中、「鼠」とおそらく恋仲にあった「小指のない女性」と出会い、中絶を告げられたわけだ。書くことで自分の弱さをどこかに位置づけようとしていた「僕」にとって、その試みの虚しさ、儚さを改めて思い起こさせる出来事だったのだろう。

完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。

この「僕」と世界との位置づけを巡る葛藤は、次作『1973年のピンボール』をはじめ、村上春樹作品の中核をなすテーマになっている。彼の小説によく登場する、暗い井戸や地下の描写は、処女作からの一貫したモチーフで、明確な区切りなくどこまでも続くのっぺりとしたこの世界を象徴している。村上春樹は、いくつもの小説を大きな物語に紡いで、一つの世界を描こうとしている。

 

痛みを感じない文章

村上春樹作品の魅力の一つとして、それが本質的かどうかは抜きにして欧米的な文章の格好良さ・リズム感があるのも間違いないだろう。僕自身、カポーティやアーヴィングの小説を読む延長線で、村上春樹を読んでいた。村上春樹作品は、よく「翻訳のようだ」などと言われるが、ちょっと気障な言い回しや、重い内容も軽快に聞こえる語り口調が、かえって「僕」が抱える悩みをコントラストとして浮き上がらせているようで僕にはしっくりきた。また、物語に登場する本や音楽にトライするのも、ちょっとした楽しみだったりする。



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