我と汝・対話

我と汝・対話 (岩波文庫 青 655-1) Ich und Du

マルティン・ブーバー 対話の哲学

ブーバーは、“今ここにいる私”を“他者”との関係の中から探ろうとした哲学者である。

彼は、ユダヤ人としてドイツに生まれ、ドイツの大学でユダヤ哲学を講義しつつ、幼いころから

反律法的な神秘主義ハッシディズムに関心をもち、聖書のドイツ語訳にも取り組んだ経歴を持つ。

また、ナチス政権が台頭した時にはパレスチナに移住し、ヘブライ大学で社会哲学の教鞭を執った。

彼の哲学には、こうした経歴が少なからず影響を与えているように感じられる。

つまり、ドイツを去らねばならなかったことや、ヘブライ大学でも正当な講座を与えられなかったことなど、

ユダヤ人というマイノリティとして、常に自らと他者や社会との関係を考えずを得なかったに違いない。

それは、彼の哲学が政治的な意味合いを持つということでなく、彼の周囲が正統/異端を巡って争う中で、

かえってより根源的な、他者と私、世界と私の関わり方に目を向けることにつながったということだ。

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「われ―それ」の世界

本書には、そんな彼の代表論文2編が収録されている。

この中で彼が提示する重要なフレームワークが、「われ―それ」と「われ―なんじ」である。

まず、「われ―それ」とは、主客が対置する関係にある世界把握の仕方を意味する。

つまり、「われ」という人格は、自分に対置する「それ」との関係性において存在が照らされる。

「それ」ではないものとしての「われ」。これが「われ」のアイデンティティの中核になるわけだ。

このような世界把握の仕方は、通常の僕らの感覚に近いものではないだろうか。

しかし、こうした見方だけでは取りこぼしてしまうものがあると、ブーバーは指摘する。

人間の生は、目的語をとる他動詞の領域だけで成り立ってはいない。
なにか目的をもつ行為のみから成り立ってはいない。

他者との他動詞的なつながりは、「われ」に何らかの経験をもたらす一方、

「われ」と他者との“あいだ”に生まれる“関係”をうまく捉えることができない。

ブーバーは、このような問題意識を持っていた。

 

「われ―なんじ」の世界

このことを理解するためのフレームワークが、もう一つの「われ―なんじ」である。

「なんじ」は、客体としての「それ」と区別されるためにブーバーが持ち出した概念である。

つまり、「なんじ」とは、他者ならぬ他者、「われ」と“つながる”他者というニュアンスのワードだ。

したがって、「われ―なんじ」とは、「われ」と「なんじ」が“ある”ことを言うのではなく、

「われ」と「なんじ」との“あいだ”に“関係”が充ちた状態のことを表しているわけである。

そのひとは、他の〈彼〉〈彼女〉と境を接している〈彼〉〈彼女〉ではない。
時間、空間から成り立つ世界の網に捉えられた一点ではなく、また経験され、
記述できる性質のものでもなく、いわゆる個性と呼ばれるような緩い束のようなものでもない。
それどころか、そのひとは隣をもたず、つながりを断ち切っている〈なんじ〉であり、
天を充たしている。〈なんじ〉以外の他の何物も存在しないというのではないが、
すべて他の一切のものは、〈なんじ〉の光の中で生きるのである。

 

ブーバーの目指したところ 「われ―なんじ」の実践

このような議論は、禅の思想と趣を一にしているように感じるのは僕だけでないだろう。

「空即是色、色即是空」、「水自茫茫花自紅」など、私と世界を「生きているそのまま」として

捉える境地は、まさに「われ―なんじ」の関係と同じものと捉えられるのではないだろうか。

ただ、ブーバーの議論では、禅者個人の内面における主客の合一でなく、

より広く社会における関係性の構築に対する問題意識であったことは忘れてはいかない。

それはなにかを実現しようと闘うことではなく、自己の思惟の中に他者の特質を
受け入れて思惟し、他者に想いを馳せ、他者に呼びかけることなのである。

禅には「隻手の声」という公案がある。これは、「片手でどうやって音を出すか」といった意である。

片手しかないなら、もう一方を他者に借りればいい。他者との共感の中で「声」を届ければいい。

ブーバーのこうした共同体の思想は、僕らの日々の実践と不可分のものである。



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