武道空手への招待

武道空手への招待

近代合理主義を乗り越えるには

「近代合理主義の限界」ということが指摘されてずいぶん経った。近代合理主義により、僕たちは国家や宗教というイデオロギーを終焉させ(「神は死んだ」)、資本経済化を推し進めてきた。しかし、日本のどこでも同じものが手に入る「国道16号線的風景」が広がった果てに、何が残っただろうか。市場価値のホワイトスペースがニッチ化した結果、些細な価値の違いの優劣に一喜一憂する「終わりなき日常」を生きるしかなくなってしまったというのが僕なりの理解だ。

近代合理主義の限界を乗り越えるには、平坦な資本主義に変わる価値の拠り所が求められていることは間違いない。しかし、難しいのは分かりやすい価値の拠り所がないということだ。原理主義的な宗教活動から発展したテロリズムや、戦中~戦後まもない頃の日本の生き方を懐古するブーム(三丁目の夕日的)は、目指す価値が分かりやすいという意味で広がったが、僕たちに今を生きる積極的な意味を与えるものにはなり切れなかったのではないか。

おそらく、分かりやすい価値の拠り所などいくら探してもない、というのが正解なのだと思う。つまりは、個々人にそうした困難な時代を生きる覚悟が求められているのである。現代の置かれた状況をそのように理解したとき、見つめ直すべきは哲学・思想レベルの問題なのではないかと僕は考えている。

 

武道空手に見る身体論

その中で、個人的に示唆を受けたのが武道空手だ。ここまでの話を踏まえて空手と聞くと「?」と思われる方もいるかもしれないが、武道としての空手は「挙禅一致」の思想を体現したものである。そもそも僕が武道空手の思想に触れることになったのは、大学入試の英文読解の著名講師で、糸東流空手の師範免状も持つ(空手漫画『ティジクン!』の原作者でもある)横山雅彦先生が、講義の中で紹介していた本書がきっかけだった。

本書は、糸東流空手の二代宗家 摩文仁賢榮が武道空手を技法と思想の両面から語りつくした1冊だ。武道の根底にある思想を説くに留まらず、多数の写真解説も交えながら、心技体を一致させるとはどういうことなのかについて空手初心者でも手に取るように示されている。優れた思想書として、フランス語、ドイツ語、英語に訳されているところからも、彼の示す思想が現代において重要な示唆を有していることが分かる。また、達人にあってもなお、武道という思想に生きることの厳しさと喜びをいきいきと語る姿にも感銘を受けた。

目次
【第一部】武道空手の流儀
Ⅰ 成り立ちと発展 ── どんな歴史があるのか
Ⅱ 糸東流とはどんな流派か ── 創始者摩文仁賢和の教え
Ⅲ どうすれば上達するのか ── 人間業の限界を破る
Ⅳ 現代武道を批判する ── 何が発展で何が退化か
【第二部】戦う武道と武道の精神
Ⅰ 武道とは何か ── その本質を探る
Ⅱ 勝負とはどんなことか ── 命のやり取りの世界
Ⅲ 動く禅としての空手 ── 心技体の一致

 

“非”合理主義としての武道空手

武道空手が示す思想をごく単純化すると、“非”合理主義(≠“反”合理主義)にこそあるのではないかと思う。目次の「動く禅としての空手」を見て既に察した方もいるかもしれないが、デカルトに代表される自⇔他、主⇔客、心⇔身といった“分ける”発想(合理主義)ではなく、そうした対立構造の枷を抜けた“合わせる”発想(“非”合理主義)を目指すということが通奏低音している。

例えば、日本古来の身体所作に「ナンバ歩き」というものがある。これは左右で同じ手足を出す歩き方のことで、武道の基本的な構えであり、武士が日本刀で袈裟に斬る姿を想像してもらえれば分かりやすい(ナンバになっていないと自分の足を斬ってしまう)。ちなみに、現代人が着物を着ると着崩れやすいのも、着物がナンバ歩きを前提にした構造になっているからだ。

このナンバ歩きは、現代人から見るとどうもぎこちなく見える。相手を殴るにしても、力学的には右手で打つ時は左足を出し、地面を蹴って腰を回転させた方が合理的だからだ。しかし、空手はそうした合理性とは別次元の動き方をする。何が起きているかというと、地面を蹴るのではなく、前に倒れることで重力を味方にしてしまうのである。空手だけでなく、昔の飛脚が現代のマラソンランナーをもってしても不可能な長距離を移動できたのも、地面に逆らわず、身体が地面を“滑る”という発想あってこそだろう。このような働きを、摩文仁賢榮は「自然と根源一体になる」と表現している。

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謙虚たることへの眼差し

この点は、日本の伝統芸能や禅の思想と大いに共通している。世阿弥の『風姿花伝』によると、能における演者の究極目標は、その演技から恣意を排することだという。演者と観客がインタラクティブする中で、心と身の演技が自然と合致していくことを理想とするわけだ。一方の禅においては、概して言えば、究極目標を六波羅蜜から脱し、仏の境地を目指すことに置いている。この場合、“私”という存在は、「色即是空」すなわち「一心さえも生起してはならぬ」(鈴木大拙)。

それにしても、武道、芸能、禅がいずれもこのような境地を目指したのはなぜだろうか。それは、「生きること」は「生かされること」でもあるという弁えを大切にしたからではないかと感じている。「生かされること」を受動的・消極的でいることと矮小化して捉える必要はない。より有利に生きようという損得勘定ではなく、そうした損得勘定のゲームから抜け出すための知恵に対して、むしろ積極的になろうということだと捉えている。

摩文仁賢榮は、利害主義・優勝至上主義に偏った現代を「畜生心」と痛烈に批判する。この言葉は非常に重い。僕らは近代合理主義に何を期待し、何を乗り越えなければならないか。そのことに自覚的であることが求められているのではないだろうか。

拳を愛し、技を使うことは武道本来の目的たる品性の陶冶、養正への一つの過程なのである。謙虚たれ!私たちは同門と、こうして話し合っているのである。



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