身捨つるほどの祖国はありや

身捨つるほどの祖国はありや

時事問題に見る日本の病理

1998年に出版された本書には、当時の「新しい教科書問題」や、神戸連続児童殺傷事件と少年法見直し議論、臓器移植法と死の自己決定論、DNA検査の発達と中絶論などの“懐かしい”時事問題が取り上げられている。しかし、振り返ってみると、ここまでは議論しつくしたという合意がひとつもない現実に気付かされる。

加熱した報道や人々の批判は一体何だったのか。「あるある」的な空気の合意で済ませ、熱がさめると類似した事件について、その時の空気でゼロから議論を繰り返すこの国に、本当に未来を生きる力はあるのだろうか。

著者の宮崎哲弥は、このようなニヒリスティックになりがちな状況の中で、フリッパント(軽薄)化した日本の共同体性を改めて暴露し、僕らが向き合うべき問題の深刻さを突き付けようと転戦していく。問題に論理的かつ真摯に向き合う著者の姿は、無力感に苛まれていた読者を勇気づけるものがある。

 

コミットメントの選び直し

現代日本が抱える問題のそもそもの背景として、「国家の物語の不可能性」が存在していることを僕らは重々理解しておく必要がある。

そもそも近代国家は、その成り立ちの時期から、二つの非常に異なった像が二重写しになっていた。ひとつは血族的、民族主義的な擬似共同体としての国家像。いまひとつは社会契約に基づく功利主義的かつ機能的な結社体としての国家像である。冷戦終結後、日本はセルフ・イメージの重心を、前者から後者へと徐々に移してきた。

こうして国家機能の正統性が揺らぎ、かつ情報伝達経路の複雑化によって社会の制御可能性が低下していく中で、僕らは、これまでのように“分かりやすい”国家の物語を描けない中で、敢えてコミットメントを選び直す難題に直面している。政治哲学における自由至上主義や共同体主義といった試みは、そうした系譜に位置付けられるわけだ。

 

繰り返される問題の短絡化

しかし、現実の日本において起きているのは、「共同体への強烈な帰属への揺り戻し」だ。教科書問題における国史への安易な依存、“風紀”を乱す少年犯罪への厳罰化、船井幸雄的ニューエイジへの短絡化。

考えてみれば、新たなナショナリズムやニューエイジの興隆は、市場や国家という広域的、抽象的なシステムによる制圧を前に、人々の具体的な生における自律がいかに衰弱しているかを裏書きするものでしかない。

著者も山本七平を引いて指摘しているが、「状況論理」に思考停止し、それが知らぬ間に「絶対的な規範」にすり替わるこれまでの日本の思考習慣からすると、このような普遍的権力への“すり寄り”は親和性の高い選択肢だろう。

しかし、「自己のライフタイムにおいて直に体験されたことだけにしか、責任も義務も愛着も反感も感じ取れなくなって」いる再帰的な現代において、この選択は、あくまで結果責任とは縁遠いポピュリズムに過ぎないのである。

 

実存主義の実践

著者は、こうした短絡化の度に、本当にコミットすべきものの所在について警鐘を鳴らす。大乗仏教中観派のブディストでもある彼は、コミュニタリアニストでありながらも決して共同体ありきの議論はしないのが特徴だ。そこにあるのは、むしろ徹底した個人主義であり、実存と徹底して向き合うところから、その実存を支えるよすがとして本当にコミットできる共同体が浮かび上がってくるというラディカルな実存主義である。

本当の自分」が―多かれ少なかれ社会的、共同的たらざるを得ない―経験に先行するという観念は、最悪の場合、素朴な「宗教」的理念を正当化することになります。そういう先験性をどこまでも拒絶し、人生をこの現世のみと捉えたとき、はじめて人は家族や社会に、あるいは世界に真摯にコミットでき、言葉に責任が持てると思うのです。



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