日本という「価値」

日本という「価値」

再帰的な現代

僕たちが感じている日本の閉塞感や不自由さというのは、何に由来するものなのだろうか。閉塞感や不自由さから脱却しようとする現代の運動そのものが新たな問題を生むという「再帰性」という考え方があるが、その「再帰性」が日増しに深刻化していることこそが原因ではないか、というのが著者、佐伯啓思の問題意識である。

近代以降の合理化精神は、僕たちがそれ以前には得られなかった利便性を享受するためのエンジンになった一方で、どこにも確からしいものが存在しないということが明らかになってゆく不安の拡大再生産の原因にもなったわけである。しかし反対に言えば、突き詰めると客観的に確からしいものなど、そもそもないのが現実かもしれない。であれば、相対的ではなく絶対的に確からしいと思える何か、著者の言う「哲学」の再発見こそ、今の日本に求められているのではないか。それが本書の大きなメッセージである。

 

経済を支える価値観

第一部では、経済をテーマに、これまでの進化論的パラダイムの行き詰まりを論じている。この国は、「産業主導モデル」から「金融主導モデル」へシフトしたアメリカがグローバル経済の果実を享受していたのを見て、それに追随する形で「構造改革」を行って、市場主義経済への適応を図ってきた。しかし、それが行き着いた先にあったのは、サプライ・サイドの過剰(デマンド・サイドの成熟)と無目的的なマネタリズムではなかったか、というのが著者の問題提起である。

永続性を性質とする「社会」を飛び越えて、「資本」と「市場」の方へ極端に振り切ってしまったことで、「資本」と「市場」が暗に基盤としていたはずの、「社会」という拠り所が失われつつあるのではなかろうか。こうした論調自体は特段Something Newなものではないが、少なくともここまでで、問題は経済の原理の枠を超えて、「社会」という価値観を巡る点だということに焦点が絞りこまれた。

 

保守主義の再生

第二部では、政治をテーマに、「戦後的価値観からの脱却」を主張していく。戦後的価値観とは、ここでは個人の自由、民主主義、合理主義、平和主義といった理想的価値観のことだ。一方で、僕らはこうした価値観の中だけで生きているのではなく、宗教的精神や、社会に根付いた習慣や習俗、地域に残る共同体的なもの、人間関係など、場合によっては戦後的価値観と相反する価値観も重視している。

著者は、これまでの日本ではこの2極の価値観が、自民党政治のもと、うまく併存していたと指摘する。すなわち、前者の建て前的価値観(顕教)を目指しつつ、後者の本音的価値観(密教)に妥協する構造だ。ところが、経済の比重が増すにつれ、本音的価値観は古く、乗り越えるべきものとして位置づけられていく。著者は、こうした本音的価値観の軽視こそ、政治や経済が「社会」から離れて無目的になった根源だとする。まさに保守本流。筋金入りの保守論者の矜持が熱く語られている。

 

手探りの問いかけ

そして第三部では、日本精神による哲学の構築に挑戦した事例として、京都学派を取り上げ、今後の日本が向かうべき方向性について、著者なりのヒントを提出しようという手探りの議論に突入していく。

私は、日本人が本当に「日本の精神」を再発見できれば、日本はニヒリズムとむき出しの「力」の対決へと突き進む「世界」に対して真に意味ある言葉を発することができるだろうと思う。それは日本人が改めて自らのアイデンティティに思い至るということである。

著者は、この挑戦に何らかの強い仮説を持っているわけではない。そこが読んでいて尻すぼみだ。ただし、少なくとも彼は、日本再建に必要なアイデンティティを日本人が潜在的に保持していると固く信じ、僕たちに自らを問い直すよう問いかけたことは評価されるべきだし、僕らが引き継ぐべきものを感じた。



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