遠藤周作で読む イエスと十二人の弟子

遠藤周作で読むイエスと十二人の弟子 (とんぼの本)

信じる者は報われるか

僕たちは信仰に何を求めているのか。信仰は僕たちを救うのか。イラク、シリア、ISILの果てのない戦争。LGBTや同性婚をめぐるアメリカでの論争。宗教を発端にした様々な諍いのニュースを目にするたびに、信じることが果たして人間を幸せにしているのか分からなくなるときがある。

この問題は、別に「〇〇教」といった特定の宗教に限った話じゃない。日本でも「正しい生き方」、「幸せになれる生き方」といったタイトルの本が、いつだってベストセラーの上位にランキングされている。正しく生きなきゃ、幸せにならなくちゃと思うほど、かえって息苦しいと感じるのは僕だけだろうか。

そんな息苦しさを感じた時、遠藤周作の作品は本来の信仰のあり方を思い出させてくれる。クリスチャンとして“救いようのないこの世において救いとは何か”を問い続けた遠藤周作の声は、僕が悩んだ時のひとつの羅針盤になっている。今回も、空港で本書を見つけ、誰にも邪魔されない飛行機の中で彼の声に浸った。

本書は遠藤周作の2つの作品(『イエスの生涯』および『キリストの誕生』)を底本に、イエスと十二人の弟子の生涯に焦点を当てたヒューマンドラマである。イエス・キリストが説く信仰とは一体何だったのか。イエスを裏切った「弱虫、卑怯者、駄目人間」たちが、イエスの死後、なぜ強い信仰者になれたのか。生涯をかけて遠藤周作がたどり着いた理解が、豊富なビジュアルで表現されており、はじめて遠藤作品に触れる方にも分かりやすい。

 

報われない信仰者イエス

遠藤周作で読むイエスと十二人の弟子1
(本書p.5 ルカ・シニョレッリ『使徒たちの聖体拝領』より)

本書は大きく2部に分かれている。その第1部が、イエスの誕生から死までの物語である。

大工の家に生まれたイエスが信仰に目覚め、ヨルダン川のほとりで下級民であった若者たちの心を突き動かしていく信仰集団の誕生から、信仰を集めたキリストに対して、当時の政治的意図も作用して一転非難の渦に巻き込まれていく受難の道のりまで、ビジュアルを交えて生々しい人間の物語として描かれている。

この物語でもっとも印象的なことは、イエス・キリストが明らかに自らの受難を予感し、それにも関わらずすすんで受難の道のりを選んでいるということである。信仰の盛り上がりが後に人々の落胆をひき起こすであろうこと。そして、信仰心の特に強い弟子たちですら自分を裏切るであろうこと。イエスは相当に早い段階から、このことに気づいていた。

自らの想いとかけ離れたところで“奇跡”だけがひとり歩きし、あたかも信仰すれば利益を得られるかのように世論が傾いていく状況を見れば、この幻想がそう長くは続かないことはイエスでなくても予想できる。しかし、イエスがすごいのは、最期まで自分の真意が世間に理解されないことも承知していたということだ。

イエスはなぜそこまで承知していても死に赴いたのだろうか。

永遠に人間の同伴者となるため、愛の神の存在証明をするために(中略)人間の味わうすべての悲しみと苦しみを味わわねばならなかった。もしそうであれば、彼は人間の悲しみや苦しみをわかち合うことができぬからである。人間にむかって、ごらん、わたしがそばにいる、わたしもあなたと同じように、いや、あなた以上に苦しんだのだ、と言えぬからである。人間にむかって、あなたの悲しみはわたしにはわかる、なぜならわたしもそれを味わったからと言えぬからである。

 

信じるということの再発見

遠藤周作で読むイエスと十二人の弟子2
(本書p.43 クエンティン・マセイス『この人を見よ』より)

イエスは、誰にも顧みられず、侮蔑と嘲りの中で死んでいくしかなかった。十二人の弟子たちも、無力なイエスの姿に失望し、また、世論の恐ろしさに怯え、ある者はイエスを知らないと言ったり、ある者はイエスを群集に突き出した。結局、人間イエスは何もできない無力な存在であったとしか言いようがない。

しかし、イエスの死を通じてひとつの変化が起きる。イエスを裏切り、イエスの呪詛を恐れていた弟子たちが聞いたイエスの死に際の叫びは、呪詛などではなく裏切った弟子たちを許す言葉だった。「主よ、彼等を許したまえ。彼らはそのなせることを知らざればなり」。弟子たちは、この瞬間、はじめてイエスの真意を悟ったのである。

それまで知らなかった、気づかなかった、誤解していた師を再発見したこと―それが彼らの出発点となる。イエスは現実には死んだが、新しい形で彼らの前に現われ、彼らのなかで生きはじめたのだ。それは言いかえれば彼らの裡にイエスが復活したことに他ならない。まこと復活の本質的な意味の一つはこの弟子たちのイエス再発見なのである。

ここにこそキリスト教の神髄があると遠藤周作は見る。何もできないイエスが最期まで譲らなかった「悲しみの同伴者」としての姿こそ、信じることの原点ではないだろうか。イエスが教える信仰の姿は、みんなが期待する“ご利益”のあるものではなかったかもしれない。しかし、現代の信仰を巡る様々な問題の根っこに欠けているものは、このイエスの姿に他ならないのではないだろうか。

 

「弱虫、卑怯者、駄目人間」の信仰

遠藤周作で読むイエスと十二人の弟子3
(本書p.36 ジオット・ディ・ボンドーネ『ユダの接吻』より)

第2部は、イエスの死後、信仰に目覚めた弟子たちが世界各地で逆境の中も不況を続け、凄惨な殉教を遂げる使徒巡礼の物語になっている。現在の使徒信仰につながる歴史が紹介されており、非常に興味深い。しかし、第2部で最も重要なのは、イエスを敵に売った挙句、後に悔いて自殺したユダの物語だと思う。

遠藤周作は、イエスが人々の期待する“政治的な救い主”、つまりイスラエルをローマ支配から解放する英雄などではないことをユダは理解していたと考えた。ユダは、多くの信者が去った後もイエスを慕っていた一方で、盲目的な信者たちとは違い、「現実的には無力な“愛の救い主”として死のうとしている」ことを心の底では分かっていた。

イエスを信じたい反面、その結末に巻き込まれることを恐れたユダ。おそらく、彼の中は矛盾と自己嫌悪でいっぱいだったに違いない。そんなユダに、イエスは「去って、なすことをなせ」と告げる。要は、裏切ってもいいと暗に伝えたわけだ。イエスは人間が弱いことを分かっていた。弱い人間が葛藤で心を痛めている。それだけで十分ではないのか。

殉教を遂げる強靭な信念。もちろん、それもひとつの信仰のあり方だが、ユダの葛藤も「弱虫、卑怯者、駄目人間」な人間の信仰として肯定すべきではないか。勝ち負けに終始しがちな現代の信仰を巡る問題を考える上で、今こそこのイエスの投げかけを省みる必要があるのではないだろうか。



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