これからの「正義」の話をしよう

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学 Justice: What's the Right Thing to Do?

「正義」をア・プリオリと想定できない時代

本書は、アメリカでテレビ公開され大人気となったハーバード大学教授

マイケル・サンデルの政治哲学講義を書籍化したものだ(日本ではNHKが放映)。

僕の手元にある日本語訳でも既に105版を重ねており、

政治哲学というテーマを考えれば異常な売れ行きと言って差し支えないだろう。

なぜこれほど大衆の心をつかんだのか。

ハーバードの講義だからというミーハーな理由は措くとして、2つの理由があると思う。

ひとつは、まさに今、僕らが「正義」をア・プリオリと想定できない時代的背景である。

そこに、これまでの重要な哲学的議論を「正義」というストーリーに乗せ、

かつ身近な事例に落とし込んで問題を投げかける著者の実践的ソクラテス式講義が

ぴたっと読者の問題意識にあてはまったのではないかと思う。

「市場至上主義的」な視点のみで正義を語ることの限界を、

著者のコミュニタリアニズムはどのように乗り越えようとするのか。

非常にエキサイティングな講義がつまっている。

 

功利主義の「最大多数の最大幸福」

「正義」をア・プリオリと想定できない、とはどういうことか。

この論点を再確認するために、本書の骨子である哲学史を少しだけ紐解こう。

著者は、功利主義、リバタリアニズム、リベラリズムの意味と限界を振り返り、

これらの哲学をより機能させる機能として、コミュニタリアニズムを再検討していく。

まず、現代の僕らに馴染み深い功利主義は、正義について何を語ったか。

著者は、功利主義が唱える「最大多数の最大幸福」の2つの限界を指摘する。

ひとつは「最大多数の最大幸福」が必ずしも個人の権利と両立しない点、

もうひとつは「幸福」を計る行為が仮設に過ぎない点である。

リーマンショックを契機に景況感が悪化し、ひとたび資本主義の「最大幸福」が崩れると、

「最大多数」として快楽を享受していたはずが、手のひらを返したように資本主義を批判し、

全く異なるスピリチュアルやパーソナルの世界に逃げ込んでしまったあの時を思い出してほしい。

「最大多数」や「最大幸福」がいかに脆いかを、端的に物語っていると言えるであろう。

功利主義者のベルも、こうした脆さを乗り越えようとして、最終的には道徳に行き着いた。

 

選択の平等を目指したリバタリアニズム

では、リバタリアニズムは正義について何を語ったか。

リバタリアニズムがテーマにしたのは、快楽・苦痛という結果ではなく、それを生みだす行為の自由だ。

つまり「他人が同じことをする権利を尊重するかぎり、

自らが所有するものを使って、自らがが望むいかなることも行うことが許される」。

結果の平等でなく選択の平等を保障するというのは一見公平に見えるが、

現実にはその人の出自で選択肢が左右されたり、また、著者が代理出産契約の問題で示すように、

必ずしも選択や取引の原則に還元できない事象も存在する。

一つは、自由市場でわれわれが下す選択はどこまで自由なのかという問題。
もう一つは、市場では評価されなくても、金では買えない美徳やより高級なものは
存在するのかという問題である。

 

中立性・普遍性を目指したリベラリズム

リベラリズムは、そうしたリバタニアリズムの課題を踏まえ、リバタリアニズム同様に自由を

重視しながらも、自由を保障するための社会的公正性に目を向ける。

本書では、リベラリズムの代表的な方向性としてカントとロールズを取り上げている。

カントは、「~ならば」という条件のない「無条件の行為」(=「定言命法」)が自律的な自由だと考えた。

あなたの意志の格率が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ
(第1の道徳法則)

この視点を政治哲学として昇華させたのがリベラリズムの大家ジョン・ロールズである。

彼は、人々が真っ新な状態でルールを決めることになれば、

功利主義ではなく次の原理が選択されると考えた(「無知のヴェール」)。

ひとつは基本的自由を全ての人に平等に与えること。

もうひとつは最も不遇な人の利益になる不平等のみを認めることである。

後者は「格差原理」と呼ばれ、個人の努力すら共同体全体の財産とする考え方である。

ロールズは、このように消極的な方法で「正義」を規定することで、

中立的・普遍的な「正義」を見出そうとしたわけである。

 

正義に程度を持ち込んだコミュニタリアニズム

しかし、著者はロールズの立場においても、現実から乖離した欠点があることを指摘している。

自分自身を自由で独立した自己として理解し、みずから選ばなかった道徳的束縛には
とらわれないと考えるなら、われわれが一般に認め、重んじてさえいる一連の
道徳的・政治的責務の意義がわからなくなる。
自分は重荷を負った自己であり、みずから望まない道徳的要求を受け入れる存在であると
考えないかぎり、われわれの道徳的・政治的経験のそうした側面を理解するのは難しい。

というのが、まさにコミュニタリアニズムの立場である。

では、コミュニタリアニズムは「正義」をどのように規定しようとするか。著者はアリストテレスを持ち出す。

アリストテレスは、政治的共同体の至高の目標は国民の美徳の涵養にあると考えた。

つまり、公共が「正義」のあり方に関与することは不可避であり、

であるならば、むしろ積極的に関与すべきという主張である。

ここに至って、今日の正義がア・プリオリに存在するものではなく、

どのレベルの公共が個人に関与するか、公共が個人にどの程度関与するかという

程度論・バランス論が重要であることにたどり着いてくる。

宮台真司の次の指摘が、こうした今日の正義論の置かれた状況を的確に示している。

リバタリアニズムでは足りないとリベラリズムが主張され、
リベラリズムでは足りないとコミュニタリアニズムが主張される。
でもコミュニタリアニズムで足りないとリベラルな追加措置が提案され、
一部リバタリアニズムが再評価される。
こうした三者の円環が、政治思想の煮詰まった今日的状況だ。

 

最後に、著者を慕う宮崎哲弥が、本書の書評として寄せた文章から一文を紹介しよう。

私達が真空に生まれ落ちるのではない。共同世界の只中に生まれ、
共同体から有形無形の資産を相続し、それらを養分として自我を形成していく。
その中には共同体が過去に背負った負の財産も含まれる。
その負債継承の前提として、さらに中身を吟味していくことこそが、
政治道徳の陶冶の出発点である。
これがサンデルの結論であり、私の結論でもある。(朝日新聞7月21日付)

 

参考:ハーバード大学が公開しているサンデルの講義映像

Justice_MichaelSandel

 

 

 

 

 

 

 



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