大衆の反逆

大衆の反逆 (ちくま学芸文庫) La rebelion de las masas

大衆は国家をつくれるか

現代社会を語る上で欠かせない大衆社会論は、オルテガの『大衆の反逆』からはじまった。1920年代のマドリードで、街行く人々に変化の兆しを感じ、スペインという国に対する国民のあり方が大衆化していく様を捉えたオルテガの言葉は、千里眼的だと驚かされるばかり。

それだけでも今読み直す価値は大きいが、もっとも考えさせられるのはオルテガの強い警鐘だ。ノブレスオブリージュの価値を理解するオルテガは、みんな平等の大衆主義を厳しく批判する。横並びを求める大衆には国家はつくれない。このオルテガの批判を、あなたはどう受け止めるか。

わたしがいいたいことは、国家というものは、人間に対して贈り物のように与えられる一つの社会形態ではなく、人間が額に汗して造り上げてゆかなければならないものなのだということである。

 

「頂点の時代」という感覚

オルテガが着目したのは、僕たちが感じる「時代の高さ」という感覚である。昔は古き良き時代に思いを馳せ、「あの時はよかった」と過去に照らして今を語ったものだが、身分に関係なく平等に権利を主張できるようになった今や、昔より今日の方が自分を自分で支配できる自由に恵まれた良い世の中だという感覚の方が一般的だろう。その意味で、今の時代の高さはいわば「頂点」にあるわけだ。このことは、僕たちにとって一見望ましいようだが、オルテガはそこに隠された陥穽を指摘する。

近代文化への信仰は悲しく淋しい信仰であった。それは、明日もその全本質において今日と同じであることを知ることであり、進歩というものは、すでに自分の足下にある一本道を永遠に歩み続けることにのみあるのだということを知ることであった。こうした道は、むしろ、どこまでいっても出口のない永遠に続く牢獄のようなものである。

 

ピークの先が見えない苦悩

オルテガのこの指摘は、むしろ今の僕たちにこそ強く当てはまるのではないだろうか。1960年代までの「追いつけ追い越せ」を過ぎ、明確な目指すものがなくなった今や、明日はもっと良くなるかもしれないが、良くなることのイメージが分からないそうしたアイデンティティの置きどころに対する不安の中で、誰かに見られていると感じられるために人々が“横並び”の強化に走ったことは、ある意味自然なことだと言えよう。

大衆とは、善い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は「すべての人」と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見出しているすべての人のことである。

しかし、こうした相互で監視し合うパノプティコンは、あくまで不安の裏返しに過ぎず、いつまでたっても終わりのないゲームに、人々は漠然とした不安を抱え続けざるを得ない。

 

不作為の作為

今、根本的に求められているのは、自分を支配する規律を選ばない“不作為”も“作為”のひとつだと自覚することだ。オルテガのメッセージはここにあると思う。 もちろんオルテガは、必ずしも過去の封建的な制度に戻そうと言っているわけではない。あくまで、既に「頂点」を知った僕たちが、自覚的(再帰的)に何を選び取るかということだ。

すべての人々が、新しい生の原理を樹立することの急務を感じている。しかしある人々は、すでに失効してしまった原理を、過度にしかも人為的に強化することによって現状を救おうと試みている。今日われわれが目撃している「ナショナリズム」的爆発の意味するところはこれである。しかし、これらのナショナリズムはすべて袋小路なのだ。

オルテガは、地理や宗教、民族などによる国家の境界の恣意性を次々と暴いていき、僕たちに、「共通の未来」をもう一度主体的に選び直すことをラディカルに迫っていく。そして、そうした思想から導かれるひとつの国家像として、オルテガは「ヨーロッパ合衆国」を予言していたことは、彼の洞察がいかに鋭かったかを裏付けている。

 

改めて、大衆は国家をつくれるか

ひるがえって、日本における「共通の未来」とは何だろうか。いや、そもそも「共通の未来」を考えようというステージまでこの国の意識は本当に高まっているか。オルテガは、マドリードの大衆を見て、まずは選ばれた少数者に呼びかけて、国民化された制度や組織のあり方をソーシャルデザインしていく方向性を考えていた。

少数者によるデザインで、大衆を「フィールグッド」にコントロールしていくのが現実的なのだろうか。それとも、大衆の総意として選択の指針を示せるよう、僕たち意識を高めることはできるのだろうか。オルテガが強調する未来志向というメッセージに込められた思いを、重く受け止める必要がある。

未来が過去に勝つのは、未来が過去を呑み込むからである。過去のうちの何かを呑み込みえないままで残すとなれば、それは未来の敗北である。政治的な共同生活を正当化するのは、けっして既存の、したがって過去に属する慣例的な、あるいは大昔からの共同体―つまるところ宿命的というか改革不可能な共同体―ではなく、現実の行為における未来の共同体なのである。



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