知識人の裏切り

知識人の裏切り ─どこまで続く、平成日本の漂流

この国のpuerile(文化的小児病)を乗り越えるには

日本という国の針路の定まらなさに、不安やいらだちを感じる人は多いのではないか。主体的な価値の選び取りなどと面倒なことは言わず、いかにカンファタブルな生活を過ごすかが目下の関心事で、自分が少しでも人よりトクな側でいたいと願う大衆。彼らはそのくせ、安全保障やら福祉政策の問題になるや、決断的なヒーローを待望し、期待はずれだと分かるとためらいもなくをハシゴを外し、なかったことにしてきた

こうしたことが毎日のように繰り返されていると、だんだんとこの国に嫌気がさしてくる保守の大家西部邁と、経営コンサルタントの波頭亮の対談も、こうした感情の吐露から始まる。このテの日本的衆愚論はよくある話なので、うなずきながら物足りなさがあったものの、中盤から繰り広げられる、現代における保守主義を巡る議論からは示唆を受けた。

 

プラクティスとしての保守主義

保守主義とだけ言うと、何だかパターナリスティックな、お堅い伝統と男らしい決断主義をイメージされるかもしれないが、そこに留まらない新しい保守主義のようなものに辿り着こうとしているところが、この対談のミソだと僕は思う。ポイントは、易き拠り所のない近代以降のアノミーにおいては、僕らが個々の状況の中で普遍的なものとは何かを具体的に感じ取って行くしかない(プラクティス)ということだ。

物事を表層的にパターン整理して済ませるのではなく、自分なりに一度序列づけてみること。抽象化が後から伴わない経験は、本質的な意味を伴わないということ。彼らが悩んだ末に辿り着いたこの合意点は、非常に重いものがあると感じた。

考えるものは戦争でも何でもいい。「恋愛とは何ぞや」「革命とはどういうことか」ということを繰り返し考えていることが、感じることも含めて、リアリティだと思う。国家についても、繰り返し、持続的に感じ、考えていれば、これこそがリアリティであると叫ばなくてもすむんですよ。宗教にも愛国心にも囚われずに、宗教とか愛国心を語れる。それが保守思想の可能性だと思う。(西部)

 

知識人のチャレンジ

フランスの哲学者ジュリアン・バンダは、1927年に本書と同名の著書を発表している(原題“La Trahison des Clercs”)。バンダはこの著書の中で、知識人が「実際的なものへの愛着を昂揚し、精神的なものへの愛を非難」していることを「知識人の裏切り」と強く批判した。現代日本の知識人も、国家主義や経済至上主義といった現実主義に迎合してはいまいか。本書はバンダの問いかけに対するオマージュとして、知識人の存在意義を問うた挑戦だと思う。

対談は、マクルーハンのヴィデオシーから、市場経済と社会の関係、戦争論、男女関係論まで及び、徹底的に語りつくした言葉の応酬を経てこそ見えてくる何かがあった気がする。そして、この対談を経て、最後に波頭が語った次の一説は、知識人だけでなく、これから知識人たろうとする人にとっても重要なメッセージとして頭に残った。

今こそ、ペシミスティックに、あるいはニヒリスティックに社会や世の中に対峙しても何も拓けない。要するに、そうしていても春は来ないんですよ。今必要なのは、まさにオプティミスティックに時代に向き合うことではないか。そうすると、神がまた生まれて、春がきて、前向きな世の中になってくるのじゃないか。今はそんなふうに考えています。(波頭)



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