大学受験に強くなる教養講座

大学受験に強くなる教養講座 (ちくまプリマー新書)

現代を俯瞰する「知の案内役」

今、学術研究の最先端で何が起きているのか。ひとことで言えば、「アメリカ型功利主義文明の行き詰まり」への挑戦である。アメリカ合衆国が成立した近代以降、世界は民主主義と市場経済という価値観のもと、大きな発展を遂げてきた。一方で、そうした価値観では裁けない様々な問題が次々と表出している。遺伝子科学や核技術への戸惑い、富の大半を数%の人間が握る格差、近代の副産物であるテロとの戦い、自由と平等という名の個人至上主義、殺してみたいという動機の殺人。こうした問いに、知的にどう応答できるのか。

僕がひとりの教養人としてこの問いに向き合うきっかけとなったのが、本書『大学受験に強くなる教養講座』の著者 横山雅彦の講義だった。横山先生は、「ロジカル・リーディング」で有名な英語長文読解のエキスパートであり、僕は高校3年の1年間、彼が紐解く政治、経済、文化、宗教などの最前線の議論に触れることで、現代を捉える俯瞰図(オーバービュー)を得ることが出来た。本書には、その1年間の講義のエッセンスが詰め込まれている。大学受験生に限らず、これから学問に飛び込んでいく人にとって「知の案内役」になる必読の1冊だ。

本書の目的は、「英語と現代文と小論文は三位一体である」という前提に立ち、それらすべてに共通する読解の知的バックグラウンドを構築することです。受験で出題される評論は、すべてさまざまな角度から「現代」を切り取ったものです。本書では、政治・経済・社会・文化を横断的・相関的に捉え、六つの角度から「現代」という世界をダイナミックに俯瞰します。

 

現代を理解する6つの視点

本書では、現代が抱える課題を6つの視点から捉えている。6つの視点に対応する各章では、先人たちの論文を紐解きながら、著者の熱のこもった議論が繰り広げられている。ポパー、ベイトソン、エリアーデ、ハイエク、トクヴィルなどの知の巨人たちの業績を踏まえた鋭い指摘は、大学受験を大きく超えて読者の知的好奇心を刺激する。ここでは、僕自身の備忘録も兼ねてさわりだけ紹介しておきたい。

目次
第一章 還元主義を超えて
第二章 言語とコミュニケーション
第三章 脱工業社会の到来
第四章 ポストコロニアルな世界史
第五章 アメリカ化する世界
第六章 現代民主主義の逆説

 

還元主義を超えて

はじめの章では、現代科学の基本思想となっている還元主義を取り上げている。還元主義とは、物事を分解し、構成する要素を理解すれば全体を理解できるという考え方だ。医学を例に挙げれば、ある器官の器質的特徴(生体組織そのもの)や機能的特徴(はたらき方)を調べることで、正常と異常(=病気)を特定する。これを突き詰めていった結果、現在ではDNAレベルで治療ができるようになったわけだ。

しかし、還元主義には欠点がある。それは、「何が起きたか」が分かっても「どうして起きるのか」は分からないことだ。著者は還元主義が捉えられないものを、「未来予測」や「縁」という言葉で表現している。こうした還元主義の取りこぼしを敏感に察知し、新たな考え方を提出したのがニューサイエンスだった。本書ではフリッチョフ・カプラの『ターニング・ポイント』を下敷きに、ニューサイエンスがチャレンジしたことの意味と、安易なスピリチュアルに対する警告を論じていく。そして、「不可知に留まること」を積極的に捉え直している。

 

言語とコミュニケーション

この章では、現代のコミュニケーションのあり方を扱っている。著者は、バートランド・ラッセルの「論理階型理論」をひいてコミュニケーションを3つのレベルに分けて論じる。この3つのレベルを意識したときに、僕たちのコミュニケーションはどこまで開かれているだろうかというのが著者の問いだ。

レベルⅠ 発話のロジック:言語操作としての形式論理
レベルⅡ 場のロジック:形式論理を解釈するためのその場の文脈(笑っているなど)
レベルⅢ 関係性のロジック:時間をかけて形成される文脈(信頼関係など)

著者は、この3つのレベルの相互関係が生む「ダブルバインド」(グレゴリー・ベイトソン)を紹介し、議論を深めている。「ダブルバインド」とは、3つのレベルのコミュニケーションの相互矛盾から逃げられない結果、「異常なコミュニケーションを異常と思わなくさせてしまう状況」である。ソーシャルネットワーク上の形式的な発話のつながりに依存したコミュニケーションや、あるひとつの解釈を正解だと叩き込まれる受験英語こそ「ダブルバインド」ではないかと著者は問いかける。

 

脱工業化社会の到来

この章では、脱工業化社会が生む3つの問題を取り上げている。「脱工業化社会」というキーワード自体は陳腐化した感があるかもしれない。しかし、著者が指摘する3つの問題、特に3つ目の「倫理的陥穽」は、脱工業化が進めば進むほど、古くて新しい問題としてあり続けるだろう。

倫理的陥穽のこわさは気づかないことにある。北朝鮮やNSA(National Security Agency)がするような情報操作に社会が脆弱化していることも問題だ。しかし、そうした情報操作に敏感であるためにも、社会の情報リテラシーが気づかぬうちに“劣化”する構造の方が重大である。その背景には「大衆と作り手の共犯関係」がある。すなわち、大量の情報から自分の情報を選別してほしい大衆と、そうした大衆の期待に応えてCookieや統計から「はずれの無い」情報を提供する作り手が一体となって、知らぬうちに選択肢が狭まっていくジレンマである。ジョージ・オーウェルの『1984』に描かれた「ビッグ・ブラザー」とは、自分のことに他ならないのではないか。

 

ポストコロニアルな世界史

この章の議論は、大きく分けて前半で<アメリカ的近代主義>から<多文化主義>へ、後半で<多文化主義>から<再帰的な統合>へに焦点がある。

前半の<アメリカ的近代主義>から<多文化主義>へとは、アメリカが「マニフェスト・デスティニー」として布教してきた功利主義への見直しである。本書で紹介されるタング族のカーゴカルトをはじめ、日本のナンバや「させていただく」習慣、黒人の歴史教育など、WASP的価値にはない固有の価値の見直しは、ポストコロニアルの成果である。

しかし、<多文化主義>は2つの問題を抱えることになる。ひとつはバックラッシュとしての自文化至上主義(ファンダメンタリズム)、もうひとつは「あなたはあなた、わたしはわたし」の相互無関心(過度な価値相対主義(アラン・ブルーム))である。こうした問題を乗り越える上で、僕たちは選択することの恣意性を分かった上で(=再帰的)、改めてお互いを結びつける理念を選びとるという困難に直面しているのである。

 

アメリカ化する世界

この章では、前章の理念の“中身”を議論する上で、アメリカ型功利主義を批判的に見直している。著者は、功利主義が掲げる「最大多数の最大幸福」という原理そのものが現代社会にもたらした恩恵を評価した上で、その功利主義が「すぐれてアメリカ的な誤謬と曲解を与えられてしまった」ことを鋭く批判する。

ここでの議論のキーワードは、「無批判的合理主義」だ。僕たちが正しいと信じる「自由」とは、本当に僕たちにとってあるべき「自由」なのだろうか。「僕たちに許されているのは、「人権思想と自由主義経済の原理に反さない限り」の自由ではないでしょうか」。著者は、アレクシス・ド・トクヴィルの“the Gleichschaltung of the mind”(精神の画一化)という警告をひいて、こう指摘する。

 

現代民主主義の逆説

最終章は、ここまでの議論を踏まえ、新しい「開かれた功利主義文明」のあり方を模索する僕たちへのエールになっている。ここでは、内容について敢えて踏み込まない。この最終章には、実際に手に取って、ここまでの議論を自分なりに租借した上で向き合ってほしい。僕が、そしてあなたが、これからどんな道を進むにせよ、既に分かりやすく手堅い解を失った現代をどう生きていくかを考える“骨太な”教養を是非楽しんでほしい。

【文中で紹介された文献(抜粋)】



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