M2 われらの時代に

M2 われらの時代に (朝日文庫)

名コンビ“M2はここから始まった

歯に衣着せぬブルセラ社会学者宮台真司と、政治哲学からゴシップまで通暁する宮崎哲弥。このM2コンビの「闘う対論」は、傍流のメディア「サイゾー」の連載として開始し、2000年前後の時事論をまとめた本書に始まって、5冊の単行本に結実するまで続いた。

日本の甘さに対して鋭く痛罵を浴びせていく彼らの対論は、アジテーション的ゆえに“良識者”の過剰反応を呼んだが、日本の構造的問題に対する的確な指摘が多く、未だに何ら構造的に変化しない現在の日本にもそのまま当てはまる内容が多い。同調を求めたり、持論を振り回すだけで、何事もその場限りの水掛け論に終始しがちなこの国において、本シリーズのような幅広い背景知識に基づいた骨のある議論は、日本の社会問題を考えるあなたにとって、貴重なエンターテイメントになるに違いない。

 

パブリックのない日本

日本はどこへ向かおうとしているのか。M2は、政治家の発言や教科書問題、サブカル論などから、日本がずっと抱え続け、放置してきた根本的な問題にメスを入れていく。

日本では国家とは何かについての合意がない。だから愛国心といっても、国家が崇高な存在だから一体化しなければいけないのか、国家が我々の自由を支える公共財だからこそタダ乗りが許されないのか、意味不明な状態でしょ。

そんな状態では、自分とどのような関係にあるか分かりもしない国家や国民(他人)に対して、「仲間以外はみんな風景」と何があっても無関心状態になるのも、ある意味自然な帰結ではないか。日本において国家というものは、自意識の都合に合わせて引き合いに出すものでしかない

 

“空気”共同体の構造的閉塞

何が日本人性なのかっていうと、血縁でもない。理念でもない。国籍でもない。一緒にいて違和感がないという単なる事実性なの。左翼的共同性の失墜、性的共同性の失墜、宗教的共同性の失墜ときて「脆弱なノリ」の共同性しか残ってない

このような“空気”の共同体では、物事は“実効性”より空気が一体化する“感じ”が求められる。愛国心の議論しかり、インターネットの匿名性への批判しかり、少年犯罪の原因に対する短絡しかり。この国は、“空気”で説明がつかない事態が起きるたびに、その背景には目を向けず、“空気”のほつれを直すことに汲々とする。そして、最後にはほつれの原因を排除する“禊ぎ”のシステムで、忘却のかなたに葬ってしまう。

しかし、度々同じような問題が起きていくと、僕らの社会に対する関心は徐々に死んでいくのである。このあたりは、暗澹たる思いになりながらも、日本の欠陥として重く受け止めねばならないと思う。

 

ラディカルな近代を経由せよ

では、日本が共同体として生き残るためには、どうしていけばよいだろうか。オウム真理教や政治家の決然主義の礼賛など、脆弱な関係を穴埋めする手段がどんどん刹那的になっていく「入れかえの可能性」の高い近代成熟国家において、“今ここにいる私”の根拠とは何か。

この「社会の幸い」を巡る理念に関して、宮台真司が中心となって意見を述べている。彼の主張は、この国の構造的欠陥を自覚し、社会システムを意図的に設計できるエリートを育て、その手当として、既存のエスタブリッシュメントの「バカが伝染らない」システムを構築することだ。このラディカルな意見に対して噴き上がる読者もいるようだが、僕は十分検討に値すると思う。

「和を乱して何か起きたら責任が取れるのか」という声は、一見否定しがたいが“実効性”は皆無だ。既存の和を捨て去ってでも“実効性”に目を向ける方策こそ、日本には必要なのである。もちろん、“実効性”のより高い選択肢がないかについては、様々な意見があって然るべきだ。あなたなら、日本の未来に対して、どのような方策を考えるだろうか。



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