白鯨

白鯨 上 (岩波文庫) Moby-Dick: or, The Whale (Penguin Classics Deluxe Edition)

一頭の鯨をめぐる不思議な物語

エイハブ船長と巨大なマッコウクジラ「モービィ・ディック」の因縁を巡る本書は、

アメリカ文学史に輝く古典的名著であり、時に百科事典や聖書とも呼ばれる不思議な物語だ。

時代は19世紀。海のロマンに憧れたイシュメールは、アメリカ東海岸でエイハブと出会う。

過去にモービィ・ディックに襲われ、失った片足に鯨骨製の義足を装着するエイハブは、

モービィ・ディックに対し、異常なまでに復習の炎を燃やし続けていた。

イシュメールは、エイハブを船長に、冷静な一等航海士のスターバック(ちなみにスタバの由来)、

人食い族のクイークェグ、アフリカ出身の黒人、中東出身のゾロアスター教徒ともに捕鯨船

「ピークォド号」に乗り込み、ついに4年もの長い航海に出発する。

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あなたにはどんな物語に見えるか

この長大なストーリーは、読み手の視点によって様々な表情を見せてくれる。

まず、読み進めるとすぐに分かるが、あたかも博物学的研究資料のような説明が延々と続く。

当時、照明の燃料として用いられていた鯨油についてや、鯨の生態や骨格構造などの

生物学的分析にはじまり、はたまた海洋・気象・船舶操縦に関する知見まで、

捕鯨をとりまく様々な事象に関する考察は、それだけで貴重な記録として読める。

それから当然、エイハブ船長とモービィ・ディックとの対決の物語(冒険物語)としても楽しめる。

対決のシーンは、実は物語のラストの方までおあずけなのだが、

「潮を吹いている。雪の山のような瘤。モービー・ディックだ」という圧倒的な登場シーンと

それに続く3日をかけたエイハブの壮絶な死闘、そして「あっ」と息をのむ結末は、

思い出すだけで手に汗がにじむ。

 

エイハブの姿が感じさせるもの

そして、さらに読み込むなら、『白鯨』を名著たらしめている最大の理由とも言うべき、

物語に込められた複雑な哲学的・宗教的意味合いが見えてくる。

物語の語り手をつとめるイシュメールはアラブの祖Ishmaelに由来し、他の乗組員も

人食い族にアフリカ人、ゾロアスター教徒と、キリスト教から見た異教徒ばかりである。

極めつけは、彼らが乗り込む船の名前。ピークォド(Pequot)とは、ピルグリムファーザーズが

アメリカに入植したとき、最初に滅ぼされたコネチカットのネイティブ・アメリカンだ。

彼らがまっ白くて凶暴な「リヴァイアサン」(ヨブ記)に立ち向かい、徹底的にやられてしまう物語は、

アメリカ人にとって、その表面的な物語以上の運命を感じさせずにはいられないはずだ。

かといって、この物語はもちろん単なる“フロンティア精神”的なお話には留まらない。

モービィ・ディックに立ち向かうエイハブの姿は、生の意味や死の恐怖を読者に問いかけ、

逆説的に宗教や人種を超えて、運命とは何かを考えさせる力を持っている気がするのだ。

 

もっともひとを逆上させ苦しめ苛むすべてのもの、およそ事を荒立てるすべてのもの、

邪悪を内に蔵するすべての真実、かの筋骨を砕き肝脳を地に塗れさせるすべてのもの、

生活と思想とを蝕むすべての狡猾な悪魔性―これらのすべての悪は、狂えるエイハブに

とっては、モービィ・ディックという目にみえる固体と化し、現実に攻撃可能な対象となった。



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