1973年のピンボール

1973年のピンボール (講談社文庫)

「僕」と「鼠」の物語に隠された意味

前作『風の歌を聴け』の続編となる作品。前作同様、「僕」と「鼠」のはっきりとした出口のない生活を描いており、その堂々巡りのような行き場のなさに、強い寂寥感を感じる作品だった。今作は、「僕」と「鼠」それぞれ別の物語を交互に織り交ぜて構成されており、ピンボールにまつわる「僕」の旅と、死を決意する「鼠」の思いが、一見無関連に見えて、根底では共通しているという複雑な展開になっている。物語を一直線に読んでいっても話がつながらないように感じるところが多く、読者は謎解きのようにして、隠された意味を探る必要がある。

「僕」の物語

『風の歌を聴け』で大学生だった「僕」は、大学を卒業し翻訳で生計を立てていた。「僕」は、ふとしたことから双子の女の子と共同生活を始めることになるのだが、そんな不思議な生活を送っていたある日、「僕」はジェイズ・バーで「鼠」が好きだったスリーフリッパーのピンボール台「スペースシップ」を探す旅に出る。

「鼠」の物語

一方の「鼠」は、あることがきっかけで大学を辞め、故郷の街のジェイズ・バーに通いつめていた。バーテンのジェイを相手に、現実感のない日々をただやり過ごしていた「鼠」だったが、新聞の不要物売買コーナーで知り合った女と関係を持つことになる。

 

アイデンティティの欠如

ここで少し謎解きを試みてみたい。キーワードはアイデンティティの欠如だ。

まず、本作では「見知らぬ土地」、ニュータウンが舞台として選択されている。自らの居場所のない新しい土地において、「僕」は土地の話を熱心に聞こうとしている。また、「僕」と一緒に暮らすのが双子で、かつ名前がないことも、象徴的だ。双子は双子であり、1人では存在できないし、彼女たちを区別するのは、トレーナー・シャツに描かれた「製造番号」のような数字だ。翻訳の仕事も、右から左へと「未訳」が「翻訳済み」になるだけで、そこに何かの足跡を残したように感じられないことも、「僕」を表しているように思う。前作で明かされた恋人の死を経て、「僕」は今も、自分を定めることができないでいる。

どこまでいったところで、きっと同じような風景が永遠に続いているのだろう。

「鼠」も、基本的に同じような構造に陥っていたのだと思う。「鼠」は、3年前(『風の歌を聴け』)の恋人の中絶がきっかけで、他者との関係を失っていた。不要物売買コーナーで女と知り合ったのは、そんなタイミングだった。彼女について「鼠」は、「注意深く言葉を選んでしゃべり、余計な質問はせず、鏡に向かって何度も練習を積んだような微笑み方をした」と形容している。思い切って他者との関係をもった「鼠」にとって、それはかえって疲労感を募らせるものだった。「僕」も「鼠」も他者との接触不良を起こしていたのだ。

どんなにあがいてみたところで何処にも行けやしないんだ。

 

僅かな“救い”の感覚

しかし、「鼠」が切れてしまったのに対して、「僕」は辛うじて世界との接触を保とうとする。「僕」だって、「鼠」と何も変わりばえしない孤独に苛まれているには違いないが、ピンボールに出会うことで、不安定ながら僅かな“救い”の可能性を見出せたのだと思う。ピンボールは、いつでも同じゲームで、終わっても延々とリプレイが続くだけだ。「僕」にとってそれは、恋人(直子)がなぜ自殺したのか、自殺を防げたのではないかという答えの出ない自問自答と同じ、堂々巡りのゲームだった。それでも、その行き場のなさを物語ることで、辛うじて存在している自分がいる。そんな風に、延々と円環する人生の中でも、少し居場所を見つけられた「僕」の姿は、「僕」と変わらない不器用な僕たちに共感を与えるところが大きい。

ピンボール・マシーンはあなたを何処にも連れて行きはしない。リプレイ(再試合)のランプを灯すだけだ。リプレイ、リプレイ、リプレイ・・・・・、まるでピンボール・ゲームがある永劫性を目指しているようにさえ思える。



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