ウィトゲンシュタイン入門

ウィトゲンシュタイン入門 (ちくま新書)

ウィトゲンシュタイン入門の決定版

ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』は、僕らの世界認識の限界と可能性を知るうえで重要な名著だ。

本書『論考』の結論は、「およそわれわれの言語が確定した意味を持ち、世界についてなにごとかを

語りうるためには、世界はこのようにできているのでなければならない」というものである。

彼は、この結論をもって全ての哲学的問題は解決したと考え、オーストリアの小学校教師となってしまう。

これまで数々の哲学の巨人たちが挑んできた哲学の問題が解決されるなどということがあるのだろうか。

そんな挑戦的内容と、ぜい肉のない鋭い文章が相まって、『論考』は哲学を学ぶ者を魅了し続けてきた。

しかし、厄介なことに『論考』は素人には難解だ。僕もいきなり『論考』にトライして撃沈したものだ。

そこでウィトゲンシュタインの入門書を漁ると、平易に、かつ深く論じられている本書に出会った。

著者の永井氏は、哲学に関する多数の入門書を執筆しており、本書も決定版と言える出来栄えだ。

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ウィトゲンシュタイン哲学のキモ

ウィトゲンシュタインの哲学を平たく言えば、この世を普遍で単純な対象(リンゴ、机など)と、

それらの間の関係性(机の上にのっている)に分解しつくすことで、

僕らが認識可能な事態の全てを記述する試みである。

これによって彼は、思考の範囲(語りえるもの)と思考の限界(語りえないもの)を峻別しようとした。

ここで重要なのは、彼の試みによって、語りえるもの(=世界)を“先験的”に規定することが

可能になる一方で、語りえないものの存在が暗に「示される」ことになるという点だ。

語りえるものが明らかになるほど、白抜き文字のように、その背景にある語り得ないものが際立つ。

ウィトゲンシュタイン哲学が重要なのは、単に論理で世界を記述することではなく、

この「示される」ものの存在に、僕らが敏感になる気づきを与えてくれることだ。

 

“超越論”的主観への到達

では、ウィトゲンシュタインが世界をどのように“語った”のか、具体的に踏み込んでみよう。

ポイントは、世界を記述していく中で「言葉が吃り、空転する地点」、つまり有意味の限界である。

名辞の配列で構成される要素命題(最小単位:論理定項)を組み合わせて、事態を記述した際に、

命題の意味内容として矛盾が生じていないか(現実に可能的な事態を表しているか)を検証していく。

しかし、感覚的には納得いくが、どうやって有意味と無意味を判断すればいいのだろうか。

この判断基準を、“超越論”的(“先験”的)主観という。

つまり、論理的世界の変化に影響を受けない、倫理的な事柄(私や神)に根っこを求めるわけだ。

「まず真理への意図(志向)があって時に応じてそれが検証されたり反証されたりするのと同様、

たとえばまず願望があって、場合によってそれが実現されたりされなかったりする」という

フッサールの「志向性」の議論と同様の関係である。

この「志向性」こそ、ウィトゲンシュタインの言う「示される」ものである。

 

ウィトゲンシュタインの前期・後期

ウィトゲンシュタインの議論は、必然の帰結として「示される」ものに引き寄せられていく。

ウィトゲンシュタインは、論理実証主義的に世界を記述しつくすことで、

本当に僕らが相対すべき“倫理”の問題を浮き彫りにしたかったのではないか。僕はそう考えている。

なお、ここでは前期ウィトゲンシュタインの議論に的を絞って紹介したが、

彼はその後、“文法”そして“言語ゲーム”という議論へとテーマを移していくことになる。

この議論の中で、“倫理”の問題に加えて、言葉を使う人の“習慣”(=「生活の形態」)にも

焦点を当てていく様子(後期ウィトゲンシュタイン)についても、本書では丁寧に解説されている。



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