プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

宗教社会学の名著

マックス・ヴェーバーの代表的著作『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、宗教的倫理が社会・経済のあり方をどのように形成されるのかを、プロテスタントと資本主義の関係をモデルケースにして分析した宗教社会学の名著である。この分析をもってプロテスタント国家における資本主義発展のコーザリティが詳らかになったとは思わないが、その国の“倫理”や“精神”といった漠としたものが形成され、現実問題と連関していくようすを捉えることが、社会構造を理解する切り口になることを教えてくれる面白い本だと思う。

 

プロテスタンティズムと現世肯定

さて、本書の中心テーマは、キリスト教の倫理と経済の関係において起きた社会学的転換である。要約すると、プロテスタンティズム運動の中から生まれた現世否定から現世肯定への転換である。この転換にヴェーバーが気付くきっかけになったのは、ドイツの人口統計である。

彼は、人口をカトリックとプロテスタントに分け、それぞれの宗派における資本家の割合を算出すると、プロテスタントの方が資本家になっている確率が高いことに気付いた。更に深掘ると、カトリックの両親を持つ子供は教養的な教育を子供に施す傾向があるのに対し、プロテスタントの両親を持つ子供は、商業的・実学的な教育を施す傾向があることも分かってきた。これは当然、子供の将来の職業選択を左右する。なぜこのような傾向が生じるのだろうか。

ウェーバーが理由を求めた先は、プロテスタンティズムにおける禁欲的態度だった。つまり、カトリックは教会を本尊とし、信者は来世に対する救いを希うことに主眼を置くのに対して、プロテスタントはそうしたカトリックのやり方がスポイルされていることに反発して生まれた宗派であり、だから、教会に囚われず世俗の中で教えを実践することに主眼を置く。この点で現世肯定と親和する。

 

宗教的実践としての資本主義

この傾向は、プロテスタントにおける職業態度に目を向けると更に明らかになる。例えば、プロテスタントの用語で職業はBeruf(calling)と呼ぶが、これは現世で功徳を積むために神から与えられた天職を意味する。したがって、自分の職業で稼ぐことは賞賛こそされ、非難されるべきものではないわけだ。ウェーバーは、次のように記している。

宗教改革がもたらした成果は、カトリックの姿勢とは対照的に、世俗的な職業として遂行される労働の道徳的な価値をきわめて重視し、宗教的な報酬をとくに強めたことだけにある。(予定説の教義に対して)自己確信を獲得するための優れた手段として、職業労働に休みなく従事することが教え込まれたのである。この職業労働だけが、宗教的な疑惑を追い払い、恩寵を与えられる状態にあるという<救いの確証>をもたらすことができるのである。

こうした禁欲的態度に基づく資本主義を、ヴェーバーは単なる商業主義と区別する意味を込めて「近代の合理主義的経営的資本主義」と呼んだ。

 

宗教的禁欲のフェードアウト

ヴェーバーが本書において示した社会学的ダイナミズムの分析はここまでだが、その後の資本主義が、必ずしも純粋な「近代の合理主義的経営的資本主義」と呼べるものではないことは明らかである。では、プロテスタントの資本主義のその後に何が起きたのだろうか。ひとつのキーワードは、社会・経済のあり方がその当初の思惑を超えて変節した可能性だ。この議論は、宗教学の権威であった阿部美哉も「世俗内禁欲から世俗的ナショナリズム」として取り上げていたが、つまり、プロテスタンティズムの現世肯定を支えていた宗教的禁欲が薄れ、経済的強制だけが残ることで、 ミイラ取りがミイラになってしまったのではないかということだ。このような本末転倒によって、今度は資本主義が宗教倫理を支配する構造になっていること(“底”のなさ)が現代の資本主義のあり方に疑問を抱かせる一端ではないだろうか。



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