世論

世論_リップマン PublicOpinion_Lippmann

現代における「世論」

本書『世論』は、第一次世界大戦での体験をもとに、外交政策、メディア、世論の3者の関係と、世論の“誤謬”の構造について観察したジャーナリスト、ウォルター・リップマンの名著である。第一次世界大戦は、それまでの戦争と違い、一般人の人的資源を動員した総力戦であり、ここに来て、外交政策が広く国民の関心事として認識されるようになった。リップマンは、こうした構造変化において、政府が「全米にわたってほとんど一つの世論と呼んでもよいようなものを作り出そうと努力していた」ことに危機感を抱き、本書を記したのだ。

世論が形成されるメカニズムが当時と比べものにならないほど多様化した現代においては、ソーシャルメディア発のデモクラシーしかり、プロパガンダ操作とは無縁の環境になったように思える。しかし、現代においてはコミュニケーションが島宇宙化することで、今度は全体を監視する国民がいないことが新たな課題であり、そうした視座から『世論』を読み直すことで僕たちは新たな気づきを得ることができるのではないだろうか。

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リップマン『世論』を理解する3つのキーワード

『世論』は、外交、メディア、世論の3者を取り巻く論点を広範に扱っている。ここでは、その中でもキーとなる3つの概念を中心に、アイディアをシェアしたいと思う。

擬似環境

あたりまえだが、僕たちが直接見聞きできる範囲はあまりに限られている。インターネットによって、僕たちがのぞき見ることのできる範囲は広がったかもしれないが、それは、生活と結びつけた「具体的情報」ではなく、あくまでテレビや新聞で知ったのと変わりない。湾岸戦争におけるミサイル攻撃シーンが象徴的だが、そういったシンボルを惹起することによって、裏側で起きていることを理解できたように感じているだけのことが多い。

リップマンは、このように間接的情報から作り出された虚構的現実を「擬似環境」と呼んだ。この「擬似環境」を介した現実認識は、あまりに巨大で複雑化した現代社会において自然な「人間のコミュニケーションの機構」であり、これ自体を否定する必要はないが、真の現実を理解するための手段としての「擬似環境」が目的化することで、真の現実に対する思考が停止することにリップマンは警鐘を鳴らす。

 

ステレオタイプ

その思考停止状態が生み出すものが、リップマンの唱えた「ステレオタイプ」だ。「ステレオタイプ」とは、ある情報に接した時に、これまでの自らの経験と類似したものにあわせてそれを判断する認識パターン、及びそのようにして認識された物事のことを指す。

「われわれはたいていの場合、見てから定義しないで、定義してから見る」という指摘は至言だ。ステレオタイプがあることで、僕たちは身の回りの情報を省力化して理解できるのと同時に、自分のアイデンティティを支えるこれまでの経験から逸脱しないでいること(自己防衛)ができる。したがって、僕たちはステレオタイプで判断する方がラクだし、合理的である。

しかし、このステレオタイプが誰のためのものか、常に立ち止まって考える必要がある。その意見のもっともらしさの源泉は本物か(単なる最大公約数的抽象論ではないか)。その意見を言っている人の立場は何か(すべてポジショントークだと弁えた時にどうか)。

われわれの哲学が、それぞれの人間は世界の小さな一部分にすぎないこと、その知性はせいぜいさまざまな観念の粗い網の中に世界の一面と要素の一部しか捉えられないのだと語るとしたらどうだろう。そうすれば自分のステレオタイプを用いるとき、われわれはそれがたんなるステレオタイプにすぎないことを知り、それらを重く考えずに喜んで修正しようとするだろう。

 

マシーン

ステレオタイプは、「外界を動かしているように思われる人たち」にとって利用される。母親が子供を、経営者が雇用者を、政治家が国民を、自らの望む方向に導くために、ステレオタイプを象徴とすることで、個人の意図をあいまいにし、集団の意図に対するYes/Noで個人を縛ることで、「その集団を、目的をもった行動に向かって堅く結びつける」。リップマンは、この構造をローカルな自治政府における「タウンシップ」を例に具体的に分析する。

タウンシップは、「自治」・「自決」・「独立」を基本に、日本の町内組合のような要領で共同体を維持することを目的化する団結の意識を醸成する。もちろん、タウンシップの外部(他の州)との関わりの中で、タウンシップが脅かされる場合もあるが、その場合は、更に大きな「連邦制」という枠組みで括ることで、集団を安定させる。この権力者側のコントロール下における集団化の構造を、リップマンは「マシーン」と呼んだ。こうした構造は、政治に限らず、メディアと広告主の構造など、様々なところに見られる。

人類の大事を処理するために集まった偉大な人々の中で、一体どれだけの人が自分たちを取り巻くヨーロッパの状況をきちんと見ることができたのだろうか。むしろ彼らはヨーロッパをめぐる彼ら自身の立場を見ていたのではないだろうか

 

ジャーナリズムの限界と可能性

もちろん、リップマンはこのようなステレオタイプに意識で抗えと素朴に考えたわけではない。彼は、ジャーナリストに可能なのは「真実を伝えること」ではなく、「報道可能な真実を広げるために戦うことができる」にすぎない、と控え目に語っている。そのための仕組みとして、彼は「専門知のネットワーク」を作り、世論操作的になりがちな大衆ニュースを検証するための材料を提供していくことが必要だとプラクティカルに考えていた。

彼の表現では、「官吏や工場監督たちの行為を評定する監査方法」である。このような監査の仕組みは、メディアに任せているだけでは不十分なことは解り切っている、これからは、個人単位でも独自の監査情報ネットワークを持つことが新たなプロパガンダ時代を生き抜く、現実的なサバイバル手段になるだろう。

決定を下すべき人びとに見えない諸事実をはっきり認識させることのできる独立した専門組織がなければ、代議制に基づく統治形態がうまく機能することは不可能である。そこで私は次のような議論を試みる。見えない事実を代表するものによって、見えない人たちを代表する人たちが補完されなければならないという原則を真摯に受け入れなければならないと。そのことによってのみ、権力・組織の分散も可能であろうし、われわれ一人一人があらゆる公共の事柄について有効な意見をもっていなければいけないという、できるはずも機能するはずもないフィクションから脱出することができるのだ。



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