善の研究

善の研究 (岩波文庫)

実存者としての哲学

西田幾多郎は、欧米発の哲学が多数を占める中で、日本発の哲学を打ち立てた稀有な存在だ。

そのオリジナリティをひと言でいえば、“「だから」を超えた生き方への視座”にある。

カントやニーチェ、エリアーデなどの試みにも通じるところを感じたが、

いわゆる西洋の哲学がロジックで人間の存在を定義しようと細分化・専門化していったのに対し、

西田は、そこに生きる実存者としての人間をまるごと捉えようとした。

西田の主著である本書『善の研究』は、哲学書としては変わったタイトルがつけられているが、

ここからも、西田が本書を哲学的研究と位置づけながらも、その先にある「どのように生きるか」

という人生の意味(=goodness)の問題を照射しようとした意思が感じられる。

こうした点が、今でも読者をひきつけて止まない『善の研究』の最大の魅力だと思う。

 

第一編 「純粋経験」

  • 純粋経験
  • 意志
  • 知的直観 等

第二編 「実在」

  • 考究の出立点
  • 真実在の根本的方式
  • 実在の分化発展 等

第三編 「善」

  • 意志の自由
  • 善行為の動機(善の形式・内容)
  • 完全なる善行 等

第四編 「宗教」

  • 宗教的要求
  • 宗教の本質
  • 知と愛 等

 

カギをにぎる「純粋経験」とは何か

では、西田は実存者としての人間をどう捉えたのか。そのカギを握るのが「純粋経験」だ。

「純粋経験」とは、反省や考察などの観念が介在する以前の直接的な経験を指す。

敢えて単純に言えば、美しい風景と出会い、はっと我を忘れる瞬間というのが近いだろう。

西田は、こうした直接的な経験の中においてこそ、人間は真に「統一した状態」になると考えた。

といわれても、なかなか理解しづらいのが正直なところだ。

例えば、観念が介在しない生まれたての赤ちゃんが経験することは「純粋経験」なのだろうか。

西田は、単に純粋無垢なことが「純粋経験」というわけではないと指摘する。

目的意識を持った主体としての「私」が、「私」という意識以前に戻り、

「私」を超えた場所の存在に気づくことができたときに、「純粋経験」は成立する。

 

意志は意識の最深なる統一作用であって即ち自己其者の活動であるから、意志の原因となる本来の要求
或は理想は要するに自己其者の性質により起るのである、即ち自己の力であるといってもよいのである。

我々の意識は思惟、想像においても意志においてもまたいわゆる知覚、感情、衝動においても
皆その根底には内面的統一なる者が働いているので、意識現象は凡てこの一なる者の発展完成である。
而してこの全体を統一する最深なる統一力が我々のいわゆる自己であって、
意志は最も能くこの力を発表したものである。

かく考えて見れば意志の発展完成は直に自己の発展完成となるので、善とは自己の発展完成であると
いうことができる。即ち我々の精神が種々の能力を発展し円満なる発達を遂げるのが最上の善である。

 

「純粋経験」と感動

なるほど。でも、まだ難しい。「私」が「私」以前に戻る瞬間とは、どんなときだろうか。

ポイントは「美しい」という感情の発露(=感動)にあると思う。

僕たちが絵画を見て「いい」と感じるときは、例えばデザインが「いい」とか目のつけ所が「いい」とか、

あくまで自分の価値基準に沿って満足できたかどうかが判断基準になるが、

同じ絵画でも「美しい」と感じるときは、文字通り、はっと“我を忘れて”ただ立ち尽くすのみだ。

その瞬間、「私」と「世界」は主・客という対立構造を抜け出し、あるがままに戻れるのである。

西田は、このような「自己の運動と外物の運動とを分化せずに統一」された瞬間に、

「私」が生きていることに意味はあるのか否かと思い悩んでいた二元論を超える

思想があるのではないかと考えたわけだ。

この発想は、まさに禅における「色即是空、空即是色」の思想と近い部分を感じる。

著者の同級生に禅の泰斗、鈴木大拙がいたが、最後に彼の著作から引用しておきたい。

有無などいう二は元来絶対一または絶対無のゆえに有るのであるが、この一も一として
守られてはならぬ。そうすると、一はまた二となる。一心さえも生起してはならぬ。
それがなければ万法~個多の世界~はそのままでなんらの過失もないのである。
(鈴木大拙『禅の思想』)



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