沈黙

沈黙 (新潮文庫)

「救い」なんて本当にあるのか?

信仰が信仰者を苦しめる。そんな逆説的な状況を見るにつけ、宗教の意味を考えさせられる。イスラエル・パレスチナ問題、インドのカースト制度、タリバンの聖戦という名の自爆テロ。もともと宗教は、敢えて単純に言えば、「聖性」というブラックボックスの中に精神的安住を求めるための必要装置であったはずなのだが、装置を守るために命を落とすという本末転倒が起きる。

一体、僕らにとって信仰とは、本当に「救い」と言えるのだろうか。クリスチャンである遠藤周作は、この問いに向かい続けた作家だ。その中でも代表作『沈黙』は、彼が悩み続けた結果、たどり着いた「信仰」のあり方が描かれている。僕は、彼が描く「神」の存在に、無宗教者としても強い共感を覚えている。2015年には、マーティン・スコセッシ監督が映画化するとも報道されており、楽しみだ。

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キリスト教迫害の物語

『沈黙』が舞台にするのは、江戸時代におけるキリスト教迫害の時代だ。江戸初期に始められた「踏み絵」は、やがて制度化され、19世紀中頃まで続けられた。在来宗教(仏教)の既得権益(檀那制)が崩れたり、天皇や将軍に対する信仰心が薄れること、また、ポルトガル・オランダなどの貿易国との当時の関係悪化が背景にあったという。

そんな中、ポルトガル人の司祭ロドリゴは、布教を目的に日本に来日する。彼は、過激さを増す迫害を避け、ともに活動するガルペとともに隠れキリシタンのもとに身を隠した。しかし、道中で出会った日本人キチジローの裏切りに合い、2人は捕らえられてしまう。

 

「救い」のなさとの葛藤

ガルペは、目の前でキリシタンを処刑され、棄教を誓えば信者を助けると脅迫を受けたが、彼はどちらを選ぶこともなく自ら殉教を選ぶのだが、ロドリゴは迷っていた。自分は棄教することができない、かといって殉教することもできない。ロドリゴは、自分の番が来ると、踏み絵の前で夜明けまで葛藤を続ける。

このような酷い状況のなかで、神はなぜ、沈黙しているのか?

神は人間を救済する存在ではないのか。こんなにも理不尽な運命を下されるのか。こんな神を信じていて、本当に救われることがあるのだろうか。ロドリゴは、最後は意識も朦朧とする中、踏み絵を踏んでいる自分に気づく。

 

ロドリゴが見つけた「救い」

ロドリゴは、踏み絵を踏む最後の瞬間、あるものを見つける。それはロドリゴに踏んでもいいと語りかけてくる、踏み絵に描かれたキリストの姿だった。

踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから

神は、人間の苦難を取り除く都合のいい「救い」は与えてくれないかもしれない。しかし、どんなに愚かで不完全な人間にも、常に寄り添い、痛みを受け止めてくれる。それこそが、キリストが教える「救い」だったのではないだろうか。ロドリゴ、そして遠藤周作自身も、そこに神を見たのである。ロドリゴがキチジローの裏切りを自然と許せたのも、そうした思いがあってこそだろう。

僕は、ロドリゴの物語を読み返すたびに、現代の神を巡る諍いにおいても、神と人間の関係における懐の深さこそが大切な気がしてならない。



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