公共性の構造転換

公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究 The Structural Transformation of the Public Sphere: Inquiry into a Category of Bourgeois Society

「公共性」という概念への自覚

公共性とは何か。公共性と一口に言っても、その内実は時代によって、立場によって違う。日本的な空気の支配に逆らわないことも「公共性」、アメリカ的個人主義もNSAの国民監視も「公共性」。国家と国民との関係をどの地点で均衡させるか。公共性は、あくまでそのバランスの産物なのだ。ハバーマスの『公共性の構造転換』は、まさにそうした公共性のバランスの変遷を大局的に捉えた名著だ。

今日われわれが「公共性」という名目でいかにも漠然と一括している複合体をその諸構造において歴史的に理解することができるならば、たんにその概念を社会学的に解明するにとどまらず、われわれ自身の社会をその中心的カテゴリーのひとつから体系的に把握することができると期待してよいであろう。

もはや「任せる」政治から「引き受ける」政治への転換(宮台真司)が不可欠な“行き詰まり日本”において、僕らが選ぶべき公共性の姿とはどのようなものなのかについて、ヒントを与えてくれる1冊だと思う。

 

「代表的具現性」の時代

近代的な公共性の議論に先立って、ハバーマスは近代以前のパブリックから分析を始める。彼は公共性の出発点を、封建領主と小作農、王族・貴族と民衆、教会と信仰者といった役割分化に見る。これらは経済的、外交的、信仰上の必要性から、私的領域の一部を公共性に譲る必然的な動きであり、ある意味「任せる」政治ではあるものの、任せられた側の正統性や責務が自明である。

いわゆる「作為の契機」(丸山真男)がはっきりした公共的合意であった点で、現代と大きく異なる。この頃の権力サイドにおける特殊な言葉遣いや儀礼行為、身体所作などの振る舞いも、自らが私民と異なる公民であることの正統性を見た目にも示そうという観点で解釈することができる。ハバーマスは、こうした公共性の特徴を「代表的具現性」と呼んだ。

 

「市民的公共性」の時代

しかし、このタイプの公共性は、次第に中央集権的なものに変化していく。そして、制度化された議会や国王が、国家存続の利益のために公共性のルールを敷き始めると、「「公的」という言葉は、狭義においては国家的という言葉と同義語に」なっていった。

そうした中で、国家存続と市民の利益が必ずしも一致せず、時に国家は市民に対して暴力的にもなり得る状況を感じた市民は、国家権力から自らの権利を守る手立てを考え始める。そこで重要になってきたのが、教養人が集まったサロンである。サロンは、イギリス、フランス、ドイツ等で特に盛んになり、貴族・市民の別ない議論は、国家権力に対するひとつのチェック機構(市民的公共性)として、今でもその気風を残している。

 

公共性の大衆化

しかし、サロンを中心とする市民的公共性も、自由経済の進展とともに、権力の“チェック機構”から権力への“リクエスト機構”へと、その性質を徐々に変質させていく。経済力を背景に、自身に有利な産業促進策や保護政策を「公共性」の名のもとに要求するという、よくある利権団体の構図である。

もちろん、その割を食わされる大衆も黙っていたわけではない。大衆は、今度は数の論理で、大衆に対する保護を求める動きを強めていく(=福祉国家)。ただし、大衆にも個々人が必要とする保護を求めること以上の公共性への合意があるわけではないので、公共政策は徐々に“不満の抑止”に近いものになっていった

 

大衆がチェック機構を担えるか

こうしたムードの公共性の弱点は、ポピュリズムやスキャンダリズムに公共性が左右される点にある。資本や政府にとっては、そうした隙を狙って、マスメディアを介して大衆を“私的”な方向にアジェンダセッティングできる余地が広がったということだ。ハバーマスは、この構図を「権力が浸透したアリーナ」として図式化している。

   ①国家が恣意的に提供する情報を ⇒ ②メディアは大衆に商品として売りつけ ⇒ ③大衆がそのムードを信用すると ⇒ ④メディアは国家に評判・拍手を届ける

僕らの公共性はここに至って、「システムによって植民地化」されたのである。ハバーマスは、このような公共性の窮地を救うには、大衆が批判的志向を持つことが必要だと言う。しかし、大衆が果たして公共性にどこまでコミットできるのか。相当の根気強さが求められる。



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