「空気」の研究

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

「あの場の空気ではしょうがないよ」

本当は間違いだと分かっていても言い出せず、やっぱりと思いながらも結局は事後対応で済ます。あの時のモヤモヤした、得体の知れない「空気」とは何なのだろうか。

これが些細な意思決定にとどまっている限りは、まぁしょうがないで済ませられるのだけれど、第二次世界大戦で、圧倒的不利と分かりながら開戦し、終わってみれば当然の敗戦にも関わらず、「あの時は・・・」になってしまったあまりにも有名なエピソードから、今の僕らは何か変わっただろうか。見通しのつかない将来を選び取っていかなければならない現代を、ポピュリズムやスキャンダリズムに噴き上がる、この国のムードの公共性で乗り切れるのか。

KYなどと流行語にするのもいいけれど、真剣にこの問題に向き合わなければいけないのでは。この「空気」については、山本七平が1973年に出版した本書が既に明快な分析を行っている。読まれた方も多いと思うが、今だからこそ、改めて読み返す必要があると思う。

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誰も批判できない「空気」の構造

「空気」とは一体何なのか。山本は「まことに大きな絶対権をもった妖怪」だと表現する。

それは非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ「判断の基準」であり、それに抵抗する者を異端として、「抗空気罪」で社会的に葬るほどの力をもつ超能力であることは明らかである。

文中で紹介される公害の例が象徴的だ。公害の原因がカドミウムなのか否か。そうした科学的な疑義を挿もうとしても、公害で苦しんでいる人の気持ちを踏みにじるのか!となる。そんな風に公害そのものが腫れ物のように「絶対化」してしまえば、感覚的な抵抗感を乗り越えてまで物事を客観的に捉え、よりよい解決策を模索しようというベクトルは当然働かなくなる。

それにしても、この「空気」はなぜ生まれるのか。キーワードは対象への「臨在感的把握」、つまり身近に感じるという近親性への感情移入である。公害は恐い、悪だ。そう感情移入した後に、いつのまにか感情移入であることを忘れてしまうから、感情移入でしかないにも関わらず、疑う方がおかしいとなってしまうわけだ。

 

過去を忘れ、状況に適応する「水」の構造

一方で、「鬼畜米英」がすぐに「アメリカさん、ありがとう」になる身代わりの早さも日本人の特徴だ。絶対的な「空気」が一瞬で「水」を差され、新しい現実に馴染んでしまう現象。「空気」が対象への「臨在感低把握」であるのに対し、この「水」を理解するキーワードは「通常性」だ。

空気の拘束でなく、客観的情況乃至は、客観的状況と称する状態の拘束である。従って“空気”と違って、その状態を論理的に説明できるわけである。

国全体が「鬼畜米英」となっているうちは、その「空気」を疑うのは義に反するように思い込んでいるが、玉音放送が流れ、敗戦という覆せない事実が知れ渡ると、それまでのことはなかったことになってしまう。

要は、受け入れざるを得ない情況にはめっぽう弱く、それに思想として抗する固定倫理がないのだ。日本の大衆は、情況が要請することに正しいことをしてきたのだから、悪いのは情況であって、誠実な大衆が責められるべきではない。だから、個々人を客観的なルールで裁くのは“平等”ではなく、頑張った人にはオール3をつける優しさを“平等”だと考えるのがフツウなのだ。

 

閉鎖集団になってしまうのか

「空気」と「水」の構造。山本は、そこに共通する「一人の絶対者、他はすべて平等の法則」を見て取る。大衆は、絶対者(人であれ物であれ)の「空気」や「水」を機敏に読み取り、したたかに適応するわけだ。しかし、絶対者は何が「空気」で何が「水」かを決める存在ではあるけど、かといってその絶対者も、何かの主体であるわけではなく、あくまで大衆から見た「臨在感的」存在でしかない。

したがって、実はそこには、ある絶対者を臨在感的に感じた大衆が絶対者の感情を推し量るという一周した妄想があるに過ぎないのであり、いくら「水」が差されようが、そのうち再び誰もコントロールできない新たな「空気」がムクムクと立ち上がってくるだけなのだ。山本の以下の予言は、そんな成り行きのままの僕らに対する強い警告だと思う。

このまま行けば、日本はさまざまな閉鎖集団が統合された形で、外部の情報を自動的に排除する形になる、いわばその集団内の「演劇」に支障なき形に改変された情報しか伝えられず、そうしなければ秩序が保てない世界になって行く、それは一種の超国家主義にならざるを得ないであろう



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