十牛図 自己の現象学

十牛図―自己の現象学 (ちくま学芸文庫)

「十牛図」に隠された禅の謎を解く

禅の公案(禅の真理を究明する手助けになる問題)に「十牛図」というものがある。ある男が失った牛を探しに出かけ、ようやく見つけるのだが、そこで突然、牛も自分も消失した上、最後に悟りを得た老人と向き合っている男が描かれているという不思議な10コマの物語だ。

「十牛図」と言えば、禅を舞台にした京極夏彦の小説『鉄鼠の檻』における重要なモチーフとして物語に絶妙に昇華されており、その意味を理解する上でマストの1冊だが、その理解を更に深める上で、僕が手に取ったのが本書『十牛図 自己の現象学』だ。

著者の1人、上田閑照は禅哲学の大家である鈴木大拙研究の第一人者であり、十の図を通して自己のアイデンティティを問う「十牛図」の本質に、丁寧に分かりやすく言葉を選んで肉薄した名著になっている。

十牛図

 

第一図「尋牛」(じんぎゅう)

「尋牛」では、1人の男が道の真ん中で牛を探して辺りを見回している。著者は、この図を「無自覚から自覚への返本的転換」というひと言で鋭く捉えている。つまり、僕たちは普段、ないもの・なくしたものを探すという思考回路に馴れきっているのだが、本当にそうだろうか。実はなくしていないものを、なくしたと思って探しているのではないか。

そういう内なる自己への問いかけを逆説的に表している。個人的には、この「尋牛」の意味に意識的であることが、「十牛図」が教える思想の中でも特に重要な気づきではないかと感じている。

 

第二図「見跡」(けんじゃく)

「見跡」では、牛を探している男が、牛の足跡を辿っていく。牛の足跡は「教」、つまり、習慣・常識・教科書などの歴史的に積み重なった教えを意味する。「尋牛」で自己の外部に本質を求めていた男が、その延長線として、今度は教えを頼りになくしたものの在り処を探そうとしている姿が「見跡」なのである。

もちろん、守・破・離の守の段階では、こうした教えは有難い道しるべになる。しかし、そこで知ったことはあくまで知識でしかないという自覚をできるかどうか。そういう問いかけを自己にできることが求められている。

 

第三図「見牛」(けんぎゅう)
第四図「得牛」(とくぎゅう)

「見牛」では、ついに男が牛のうしろ姿を見つけ、必死に追いかける。この絵の意味は、「尋牛」を思い出してもらえれば想像がつくのではないだろうか。すなわち、真の自己が今の自己から逃げようとする「自己と自己の分裂」を意味している。必死に追いかけた末、何とか牛を縄で捉えたようすが「得牛」で描かれる。この図においても、牛は後ろを向いたまま暴れまわり、分裂状態には変わりない。

 

第五図「牧牛」(ぼくご)
第六図「騎牛帰家」(きぎゅうきか)

しかし、「牧牛」では、牛をつなぐ綱が緩み、ついに男に寄り添うようすが描かれている。懸命になくした自己を探す問いかけが実を結び、真の自己を徐々に取り戻しているのだ。「騎牛帰家」では、この体感の極まりとして、男が機嫌のいい牛の背に乗って笛を吹いている。荒っぽいやり方ではあったが、教えを学び、全力で追いかけ、飼いならすことで、真の自己とは何かを自分なりに得心した修行の成果がここに結実したわけだ。

牧人と牛とは肯定的に統一されつつもまだ二重であったが、ここでは、牧人と牛とはすでに一体、自己の自己への関わりにおける分裂葛藤がやみ、自己存在は自ずから詩趣を帯びてくる。牧人と牛との「二」の統一の「一」がすっかり自然になり、その一体の自然さはおのずから天地の自然に共鳴して笛の音になる。牧人が吹いているというより、牧人と牛との一体性が吹いているのである。天地との一体性という曲を。

 

第七図「忘牛存人」(ぼうぎゅうそんにん)

しかし一転、「忘牛存人」に牛は出てこず、男が月明かりをただ眺めるばかりだ。一体、牛(真の自己)はどこへ消えていってしまったのだろうか。実は、十牛図の真髄はこの第七図以降に表れてくる。著者は「忘牛存人」を、己が真の自己と近づいていくうちに完全な自己同一となり、「真の自己なるものはない」と知るに至った境地であると読み解く。

「騎牛帰家」で得た悟りは、真の自己にたどり着いたひとつの到達点だったかもしれないが、そのプロセスを超えてしまえば、その時の充実感は急速に冷めていく。ここに来て、男の中で悟りの意味が大きく転換していく。

 

第八図「人牛倶忘」(にんぎゅうぐぼう)

「人牛倶忘」では、絵の枠である円相があるだけで、中には何も描かれていない。ここまでの自己の探求では牛を巡るアドベンチャーが次々に描かれていただけに、ここにきて空白を突きつけられるインパクトは非常に大きい。今までの自己の追求は一体どうなってしまったのであろうか。著者は、この境地を空白でありながら自己にとって空白でない意味があると説く。

これは第七にとっては絶対死を意味する。第八の絶対無は、第七に対してはその絶対的な否定になるが、絶対無はもともと絶対否定即絶対肯定=絶対肯定即絶対否定である。この絶対無の「即肯定」が、再び、第七から第八への大死に沿って、「死して蘇る」(絶後に再び蘇る)こととして示される。

 

第九図「返本還源」(へんぽんげんげん)

「返本還源」は、「人牛倶忘」の暗転のあとに訪れる男の境地を表している。そこにもう男はおらず、美しい川が流れ、花が咲き誇る世界(水自茫茫花自紅)がある。十牛図の中で、最も自然に理解しづらいのがこの思想だろう。ここで表されているのは、「自己などない」という単純な開き直りでは決してない。それなら、「人牛倶忘」で終わってしまえばよかったはずだ。

敢えて「水自茫茫花自紅」の具体を示したのは、「自己ならざる自己」の象徴として、「我」性への逆戻りに対するリアルな歯止めなのだと著者は指摘している。「自己」を超越した「自己ならざる自己」にこそ、気づきの意味が存在する。「色即是空空即是色」も同じ境地を表現しているように思う。

 

第十図「入鄽垂手」(にってんすいしゅ)

「入鄽垂手」では、男が再び「尋牛」の時のように佇んでおり、その対面には老人がいる。男には「尋牛」の時から何も変化がないように見えるが、ここまでの九図を通観してくると、Before/Afterの違いが、ずしんと重いものとして感じられるようになる。

正直、第九図までは、結局ここまでの旅は何だったのかと、はじめは煙にまかれた気分だった。せっかく牛を見つけたと思ったら消えてしまって、何にもなくなったそれこそが真の自己だと言われても、「そんなものか」と思い過ごしてしまいたくなる。しかし、この「入鄽垂手」において、再び世俗での実践に戻っていく姿が描かれることで、「自己ならざる自己」を超えて、改めて「自己」を引き受けて生きていくことの重みを突きつけられたような気がしている。



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