鉄鼠の檻

文庫版 鉄鼠の檻 (講談社文庫)

謎の古刹に巣食う妖怪

舞台は戦後、小田急をはじめとする交通がまだ発達する前の箱根の山奥。ようやく観光地として切り開かれようとするこの地に、どこの本末にも属さない謎の古刹が発見される。この「明慧寺」は、古今東西の宗教・歴史に通暁する古本屋、京極堂ですら知らないという寺だった。外界と隔絶された明慧寺で、天台も曹洞も入り乱れて修行する彼らの来歴と思惑とは一体。

そんな中、箱根山中の旅館「仙石楼」に滞在していた骨董商の今川と久遠寺老人の目の前に忽然と僧侶の死体が現れるところから事件は始まっていく。事件記者としてやってきた中禅寺敦子とカメラマン鳥口、例によって事件に巻き込まれる小説家関口、そして久遠寺に依頼された探偵榎木津らが明慧寺に乗り込む最中、更なる連続殺人が繰り広げられる。

この事件の最もややこしいのは、いわゆる俗世間の常識が一切通用しないところにある。山口・益田ら警察は、僧侶同士の怨恨や痴情のもつれの線で捜査するが、明慧寺の闇は深まるばかり。京極堂も、明慧寺に巣食う「鉄鼠」の存在に気づくのだが、今回ばかりは悩んでいた。言葉が通用しない「色即是空」の世界を前に、呪という言葉を操る憑き物落としがどう立ち向かうのか。

鉄鼠_鳥山石燕

鉄鼠(絵:鳥山石燕)・・・三井寺の戒壇院建立が叶わなかった僧頼豪の怨霊と言われる

「宗教には神秘体験が必要不可欠だ。しかし神秘体験と云うのは絶対に個人的認識なのだ。仮令どれ程凄い体験であろうとも、神秘は凡て個人の脳内で解決できてしまうものだ。その神秘体験を何等かの説明体系を用いて個人から解き放ち、普遍的なものに置き換えると宗教が生まれる。つまり神秘を共有するために、凡ての宗教は道具―言葉を必要とするのだ」
「禅は―違うのだな?」
「そう。禅は個人的神秘体験を退け、言葉を否定してしまう。禅で云う神秘体験とは神秘体験を凌駕した日常のことを指すのだ。つまり、数ある宗教の中で、殆ど唯一、生き乍らにして脳の呪縛から解き放たれようとする法が禅なのだ」

 

「悟り」の思想構造

この事件を読み解くには、禅という宗教の思想構造を理解することが必要だ。『鉄鼠の檻』では、京極堂の鋭い解説で、下手な論文より解りやすくその本質を掴むことができる。特に重要なことは、「悟りとは何か」というキークエスチョンに収斂される。

そもそも「悟り」は、来世における成仏でなく、現世における即身成仏という発想を根本に置く。これは前作『狂骨の夢』で扱われた真言密教も同様だ。では、現世で悟るにはどうすればよいのか。この問いが禅を独自の思想に発展させた。簡単に言えば、浄土宗をはじめとする仏教では、「南無阿弥陀仏」に表れるとおり、仏に帰依し、現世の事象は心の動きの現れに過ぎないという「唯心」的な認識論に重きを置く。

しかし、禅はその心すら「空」であると考える(=「唯識」)。「空」は「無」ではない。京極堂は「我なくして世界はあらず、我なくしても世界はあり」という2つの真理を同時に識ることだと指摘するが、この矛盾した境地を理解する上で臨済禅の公案『十牛圖』がモチーフとして登場する。

「悟ることは必要だ。己に本来仏性が備わっていることを知らずに生きるのでは、仏性を持っていないのと変わらない。だから仏性に目を向ける、仏性を己のものにする―つまり『十牛圖』の前半部分は矢張り大切なんだ。だが結果大悟しても、決してそれで終わりではない。それは本来の姿に立ち戻っただけであり、その後も生き続ける―修行し続けなければ嘘だ、間違いだ、と『十牛圖』は教えている。悟後の修行が大事なんだよ」
「じゃあ師匠、この仙石楼には―と云うか明慧寺で発見された『十牛圖』には、一番肝心なところが欠けていたつうことですね」
「そうなるね」

 

「悟る」の先にあるもの

『十牛圖』は、男が牛を探しに出かける10コマの物語だ。この物語は、男(今の自己)が牛(真の自己)を見つけ、つれて帰るのだが、9コマ目になると突然、牛も自分も消失した真っ白な円環の相になったと思うや否や、10コマ目には、男は現実世界に戻り、悟りを得た老人と向き合うという不思議な展開をする。京極堂によると、原作では8コマだった物語に、後の禅僧が2コマを付け加えたのだという。この2コマにどのような意味があるのか、この2コマが欠けていることと事件にはどんな関係があるのか。

『十牛圖』が教えるのは、解っていても、解った気になった途端にそれは解っていないのと同じ、解ったこと自体を自分自身に説明している状態(=解った気になる)を超えて、「説明抜きで、解ったことそのものを、生きること自体で体現」する境地こそ本質だということ。『鉄鼠の檻』は、この境地にたどり着こうとする狭間で、僧たちが明慧寺という「檻」から出られなくなっていく心理を巧妙に描いている。



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