幸福な王子|オスカー・ワイルド

幸福な王子―ワイルド童話全集 (新潮文庫) The Happy Prince

“幸福”な王子? or “不幸”な王子?

「幸福の王子」といえば、皆さんもご存じの、有名な童話作品だ。僕も幼いころに読んだときにとても感動した覚えがあり、お気に入りの物語だった。しかし、今になってこの作品を読み返すと、感動よりも皮肉さを強く感じた。幸福な王子は本当に“幸福”だったのだろうか。もちろん、王子が貧しい人々に与えたあたたかい親切に感動する物語としても楽しめるが、親切が必ずしも報われないという人間の“冷たさ”にも目を向けて読むべき、奥の深い物語だと思う。

僕が読んだ新潮文庫版は、「幸福な王子」以外にもいくつかの短編が収録された短編集になっている。ここでは、メインストーリーである「幸福な王子」以外にも、同じ皮肉さを感じた「忠実な友達」という物語も取り上げて紹介したい。

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「幸福な王子」の悲しさ

「幸福な王子」は、宝石で縁どられた立派な像として、町のシンボルとして広場の真ん中に飾られていた。ある日のこと、そんな彼が町を見渡していると、貧しく生活に困っている人々の姿が目に飛び込んできた。それを見た王子は、王子の足元で一休みしていたツバメに、自分の目や刀の柄を飾る宝石を取って、貧しい者たちのところへ運ぶようにお願いする。

王子に頼まれたツバメは、優しい王子の気持ちを汲み取り、毎日毎日、少しずつ王子の宝石を剥がしては運び、貧しい人々が少しでも幸福になれるよう、一生懸命に王子の手伝いをする。しかし、そうこうするうちに越冬のための渡りをする時期を逃がしたツバメは、宝石を失ってみすぼらしくなった王子と共に死んでしまうのであった。

 

「忠実な友達」の寂しさ

ハンスは仲のいい粉屋の大男ヒューのことを慕い、2人はお互いに頼りあえる兄弟のようだった。だから、ハンスは親友の願いとあれば、ヒューに代わって粉を売りに行った。本当は自分の手押し車を直すはずだった板でヒューの家の屋根を直し、ついでに次の日、ヒューの羊追いを代わりにやってあげたりもした。ヒューが病気のときは、大雨の中でも、ヒューに頼まれた通り医者を呼びに行ってあげた。そして、医者を呼びに行った帰り、とうとう過労のために倒れ、ハンスは死んでしまう。

そんな彼の死について、一番の友達だったヒューは葬式の場でこんな風に語った。「小さいハンスがなくなったのは、まったく誰にとっても大きな損失だ。」ヒューにとってハンスの死は、あくまで自分の利益が失われたという意味での損失でしかなかったのだ。

 

“親切”とは何か

一体、親切とは何なのだろうか。他人を思いやる行為が見返りを前提にしたものになってしまうのもおかしいけれど、自分と仲間を犠牲にしてまで他人を幸せにする「幸福な王子」や、相手にうまく利用されたのに気づかぬまま懸命に従った「忠実な友達」の姿を見ていると、親切であることは損のように感じてくる。そういえば、親切を貫いて、みじめにも磔にされたキリストという人もいた。彼も、「隣人愛」を説き続け、自分に対する裏切りさえも許し続けた結果、最後は誰からも顧みられないままひとりで死んでいった。

一方で、「幸福な王子」に救われた貧しい人々のように、また後にキリストに救われた使徒たちのように、相手を思いやる心が細々と受け継がれたのも確かだ。それが、彼らの死に値するほどのものであったかは正直分からない。いや、むしろそうした損得勘定を超えたところにあるからこそ、人の心を動かしたのだろう。その意味で、親切とはもともと自己犠牲の意味をはらんだ、非常に切ない行為なのではないだろうか。

オスカー・ワイルドの物語は、こうした合理性を超えたところにある次元を僕たちに再認識させ、人の心を動かすことの難しさと尊さを教えてくれる。自分の身に引きつけて言い換えれば、これを読んだ僕たちの“覚悟”を問われているのではないか。



“幸福な王子|オスカー・ワイルド” への1件のコメント

  1. トムソーヤー より:

    私も子どものころから幸福な王子が好きです。確かに残酷なところはありますが、王子は幸せになったんだと子ども心に信じれたことも大切なことですよね。

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