テアイテトス

テアイテトス (岩波文庫 青 601-4)

対話の面白さ

哲学者プラトンは、師ソクラテスとの対話を通じて真理を浮き彫りにする「対話篇」で有名だ。対話のポイントは、相手に答えを見つけさせることである。ソクラテスは、決して答えを押し付けることはない。本書では、若者テアイテトスがソクラテスから様々な問いかけを受けて自分なりの答えを模索するのだが、このプロセスによってテアイテトスと読者の心は深い納得感に導かれていく。この手法は「産婆術」とも言われる。

テアイテトスは、個々人の“感覚”に応じて様々な“知識”がありうるとするプロタゴラスの説に疑問を持つ。もちろん、著者プラトンのインテンションはその反駁にあり、プラトンはソクラテスを通して、真の“知識”とは精神によってとらえられるものであり、個々人の“感覚”ではなく客観的な「イデア」として存在していることを暗に示していく。この「イデア」というのは、プラトンの思想の核となるアイディアであるが、本書『テアイテトス』はこの「イデア」を理解するための、プラトン入門書としてもおすすめしたい。

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イデアとは何か

ソクラテスは、プロタゴラスの説に対し、次のような問いを立てた。感覚=知識と言えるのであれば、知識は常に感覚とともになければならないが、本当にそうだろうか。彼はこの問いを具体例を挙げて反証していくのだが、ここでは分かりやすくペンの例で確認してみよう。

ペンには、僕のペン、あなたのペン、店に陳列されているペンのように、数多くの具体物が存在する。僕らのペンという“知識”は、これらのペンを“感覚”するからこそ生まれているのだろうか。ここで目をつぶってみる。目をつぶれば、目の前のペンという具体物を感覚することはできなくなってしまうが、かといって、当然ながら僕らのペンというイメージがなくなるわけではない。

ソクラテスは、このように直接感覚することなしにも知識が存在することを説明し、このことから物事にはまず「イデア」という存在の本性があって、具体的なペンはその本性を分け持っていると考えたわけだ。

 

美のイデア

この「イデア」論は、後期のプラトンにおいて成熟されていく。例えば『饗宴』では、プラトンは「美」の本質を次のように語っている。

それは常にあるものであって、生じることも滅びることもなく、壊すことも減ずることもない。さらにまたこの(美〉は、それを感得するものに対して、顔とか手とか、その他なんでもあれ、肉体に属するものの姿で現れることもないでしょうし、また特定の言説や知識の形で現れることもないでしょうし、またどこか他の何かのうちに、たとえば動物とか大地とか天空とか、その他何らかのもののうちにあるものとして現れることもないでしょう。それは純粋にそれ自体だけで、常にただひとつの相を保ってあるものなのであって、他の美しいものたちが生じたり滅びたりしても、かのものはそれによっていささかも増減することなく、またいかなる影響をも受けることなないのです。

 

「なる」・「生ずる」の論理

プラトンがこのように考えるに至った背景は、何だったのだろうか。根本には、当時の相対論者が主張した「ある」の論理から、「なる」・「生ずる」の論理への着目がある。つまり、物事というのは確かに物理的にそこに「ある」のだが、それを僕らが“知識”するというのは、そこに「ある」ものを理解し、世界に位置づける(=「なる」・「生ずる」)ことこそ本質だということだ。

たとえば私が〈白い石〉を見るとする。このとき、〈私の目〉は〈働きかけるもの〉で、〈白い石〉は〈働きかけられるもの〉である。このとき気をつけなければならないのは、〈働きかけるもの〉とか〈働きかけられるもの〉といっても、それを単独に何かであると固定的に考えることはできない。なぜなら〈働きかけられるもの〉と行き交う以前には、働きかける何かであることはないのだし、また〈働きかけるもの〉と行き交う以前には、働きかけられる何かであることもないのだから。そしてあるものと行き合って〈働きかけるもの〉となっているもの、また別のものと落ち合えば今度は〈働きかけられるもの〉となって現れたりするのである。

 

相対主義を乗り越える

こうした議論の更なる背景には、当時のソフィストたちの相対主義が行き着いた“価値の平坦化”がある。物事を論理で記号へ解体していった先に、何事も決められない懐疑主義が蔓延してしまうというのは、かつてのアラン・ブルームの指摘を引っ張るまでもなく、現代においても存在する病理である。確かに、相対主義は近代合理主義が“合理的に”導いた結論として、一定の評価をすべきパラダイムだが、何事も取り替え可能な流動性の極めて高い社会(宮台真司)こそが、僕らの望んだ未来だっただろうか。

ソクラテスやプラトンの眼目は、こうした行き過ぎた相対主義を批判し、哲学者として普遍的な価値とは何かを模索することにあった。懐疑主義を乗り越えて価値を定立しようとする彼らの哲学的葛藤に、僕らが学ぶべきところはまだまだあるのではないか。



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