論理哲学論考

論理哲学論考 (岩波文庫) Tractatus Logico-Philosophicus

私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する

ウィトゲンシュタインの哲学とは、“論理の哲学”である。

彼は世の中にある“対象”が、全て予めそれぞれ決められた可能性を有しており、

その対象の可能性のひとつが性質として「事態」に現れ出ること。

それをすなわち“世界”と呼んだ。

反対に言えば、その時々の「事態」という文脈の中で、

対象がどのように配列されているかを論理的に知ることができれば、

起きうる「事態」全て(=世界全体)を知ることができると考えた。

本書『論理哲学論考』は、まさに彼が哲学とは“論理”であることを証明しようとした

最高傑作であり、番号がつけられた短い命題がずらっと並んだ一風変わった

記述方式は、論理的関係を精確に表すために生まれたひとつの到達点である。

noun_3678_cc

敢えて“論理”から“倫理”にアプローチする

しかし、このウィトゲンシュタインの試みは、彼の言う「像」、

すなわち起こりうる事態を記述すること(命題)はできても、

当然ながら、その命題が何を意味するかについては何も語ってくれないのである。

命題はただものがいかにあるかを語りうるのみであり、それが何であるかを語ることはできない。

ウィトゲンシュタインは、この事態をどう考えていたか。

彼はむしろ、「語られるもの」と「語られないもの」を峻別し、

どこまでが論理で語られうる世界で、どこからが語られずに「示されるもの」かを明確にしようとした。

論理というのは、“文法”としては語ることができても、それが何を意味するかは

僕らの“倫理”(“この私”と“神”)によって変化する非論理的な存在である。

裏を返せば、世界が何を意味すべきかを決定するのは、僕ら自身だというわけだ。

こうした内的性質や内的関係は命題によって主張されうるようなことではなく、
その事態を描写し、その対象を扱う命題において、示されるものにほかならない。

ウィトゲンシュタインは、このような作業仮説に基づき、“この私とは何か”に漸近していった。

 

論じえないことの重み

ウィトゲンシュタインの議論は、フッサール現象学のアポステオリとア・プリオリの議論と似たところがある。

アポステリオリ(シチュエーションがひとつの構成要素となっているよう)な経験のうちに、

ア・プリオリな概念が含まれるというフッサールの指摘は、

まさにウィトゲンシュタインが議論したことに近似しているように思う。

しかし、フッサールはア・プリオリなものを「物質的自然」、「生命的自然」、「精神世界」という

「基づけ」関係へと分解していくわけだが、この点はウィトゲンシュタインと大きく異なっている。

ウィトゲンシュタイン哲学は、「示される」ものは語ることができないと突き放しているからだ。

アポステオリをすべて記述した先には、もう語るものなど残っておらず、ただ沈黙せねばならない。

まるで宇宙の果てを見つけてしまったかのように、世界の端を見る。

この気付きが、ウィトゲンシュタインの成果だと思うのだ。

およそ語られうることは明晰に語られうる。
そして、論じえないことについては、ひとは沈黙せねばならない。
主体は世界に属さない。それは世界の限界である。
世界の中のどこに形而上学的な主体が認められうるのか。
善き意志、あるいは悪しき意志が世界を変化させるとき、
変えうるのはただ世界の限界であり、事実ではない。
ひとことで言えば、そうした意志によって世界は
全体として別の世界へと変化するのでなければならない。
いわば、世界全体が弱まったり、強まったりするのでなければならない。



この本についてひとこと