思い出トランプ

思い出トランプ (新潮文庫)

3つの短編で直木賞をとった新人

向田邦子は、「花の名前」「犬小屋」「かわうそ」のたった3つの短編で直木賞を受賞した。たった3作品、それも新人だった向田を直木賞にするなんて選考委員ももめたようだが、1つの作品でたった20ページもない中で、長編でも描けないような人間のドロドロとした心の動きを描いた作品の凄さは認めざるを得なかったに違いない。

本書『思い出トランプ』には、この3作品やドラマの脚本が収録されているが、どの作品も、登場人物の喜びや憎しみをちょっとした会話や動作の中で絶妙なバランスで描いており、それが分かる度に読者の心は強く揺さぶられる。冒頭に収録されている「かわうそ」は、特に印象に残った作品で、今でもドラマのワンシーンのように脳裏に焼きついている。

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向田作品の傑作「かわうそ」

「かわうそ」は、夫が妻を縁側から眺めて、これまでの思い出を回想する視点で描かれていく。定年間際に脳梗塞で倒れた中年の夫「宅次」と、無邪気でいたずら好きな妻「厚子」。宅次から見て、自分にない明るさを持つ厚子は確かに魅力的だった。

しかし、そのどこまでも屈託のない明るさに、時に恐ろしさを感じることもあるのだった。近所で火事があった時も、「火事ですよお」とバケツを叩いて隣人を起こしていた厚子は、宅次には「そばで見ていて気がひけるほど」楽しそうに見えたし、宅次の父の葬式のときも、厚子は新調の喪服を着て、涙をこぼすというかたちではしゃいでいたように宅次には思えた。

 

無邪気であることの残酷さ

そんな頃、宅次は厚子が自分の知らないところで大切にしていた庭を若い銀行員たちの社宅にしようとしていたり、子どもが急性肺炎で亡くなった時も実は厚子がすぐ診察に連れて行かなかったせいだったかもしれないことを知る。もちろん、厚子には悪気はなかったのだろう。しかし、その悪気のなさが、かえって宅次には底の知れない残酷さに見えたのだ。

宅次はそんな厚子のことを「かわうそ」に喩えてこんな風に独白する。

かわうそは、いたずら好きである。食べるためでなく、ただ獲物をとる面白さだけでたくさんの魚を殺すことがある。殺した魚をならべて、たのしむ習性があるということで数多くのものをならべて見せることを「獺祭図」というらしい。

 

心の澱という感情

この宅次の複雑な感情は、無邪気さに対する怒りのような単純なものではない。妻と長年連れ添った自分の中で、心に溜まった澱(おり)のような、誰のせいとも言えないし、怒りとも憎しみとも言い切ることができないような感情。そんな行き場のない感情が、宅次が厚子を観察する中で絶妙に伝わってくる。

特に秀逸なのは、宅次が包丁を手にするラストシーンだ。

宅次は立ち上がった。障子につかまりながら、台所へゆき、気がついたら包丁を握っていた。刺したいのは自分の胸なのか、厚子の夏蜜柑の胸なのか判らなかった。写真機のシャッターがおりるように、庭が急に闇になった。

 

「かわうそ」が描いたもの

このシーンを読むと、人が闇の中に落ちる瞬間というのはどこにでもあるのだと痛感する。厚子を愛しているという思いと、本当に愛しているのかという思い。殺したいほど憎く思っているのは、厚子のことなのか、自分のことなのか。そんな混沌とした人間のドロドロとした感情が溢れたとき、宅次は包丁を手にするほかなかった。

この時の宅次の表情を想像するときに思い出すのが、フランシス・ベーコンの絵画だ。彼の描く肖像画には、苦痛とも喜びともつかない表情が溢れ、何かと葛藤しているようにも見えるし、ちょっと間抜けに見えるところもある。そんな、人間の複雑な多面性をひとつの表情にすべて放り込んだような表情こそ、宅次の行き場のない瞬間の表情を捉えているように思う。



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