市民政府論(統治二論)

完訳 統治二論 (岩波文庫)

社会契約説の系譜

ジョン・ロックの『市民政府論』は、ホッブズ、ルソーと並ぶ3大社会契約説の1つだ。社会契約説は、国家の成立を中世における封建的な主従関係ではなく、生まれながらに自然権を持つ個人の契約関係にフォーカスを当てたことで、それまでの国家観を180度転換し、近代国家の基礎となったことはご存知のとおりだ。

その中でもロックは、初めの基礎を作ったホッブズの考える自然状態(闘争状態)を批判し、人間には自然法というディシプリンが備わっていることを強調したところに特徴がある。彼のこの試みは、キリスト教的世界観に基づいていることは間違いなく、その点で普遍性に対する批判は多いが、国家が国家として形作られる上で、人間は何らかのディシプリンを求めるものだというのも重要な学びではないかと思う。文章も平易で読みやすいので、改めて読んでみてほしい。

人間はすべて、唯一人の全智全能なる創造主の作品であり、すべて、唯一人の主なる神の僕であって、その命により、またその事業のため、この世に送られたものである。自然法というのは、すなわちこの法が誓している神の意志である。

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共同体的合意としての国家

はじめに改めて、ホッブズとロックの「自然状態」観の違いをおさらいしたい。

トマス・ホッブズは『リヴァイアサン』の中で、自然状態を「闘争状態」として見た。つまり、万人は生まれながらに平等の権利を持っているゆえに、互いの権利を主張しあい、かえって自分の権利が危機にさらされてしまう構造に置かれると考えた。だからこそ、ホッブズは、そうした闘争状態を回避するためには法を置き、その法の遵守を義務づける権力を置くことが、各人が自由と平等を享受する上で自然に合意されるべき姿だと主張したわけだ。

それに対してロックは、自然状態においても各人は無差別に闘争を行うのではなく、「自然法」(=神の意思)に違反する者を排除するために力を行使していると考えた。したがって、彼にとって国家とは、ホッブズほどの必然性をもった平和維持装置ではなく、「自然法」をよりうまく遵守するための共同体的合意と呼ぶのが適切だ。

 

所有権のマネジメント

この共同体的合意における最も重要な目的は、所有権を保証することにある。原初においては、人々は無限に広がるリソース(土地等)に対し、①自らが労働を加え、ただし②利用しうるだけの量に限って所有を主張し合っていた。この段階では、限られたパイを取り合う必要性は低く、貯蓄という概念もなかった。しかし、徐々にフロンティアは開拓しつくされ、更にそこに貨幣概念が加わったことで、各人が所有を巡って主張し合う範囲は、急激に拡大していった。

そこで、「自己保存の権利」をより発展させ、仕組み的に所有権を保証する「市民的社会」という公共の機構に自然法の執行を委ねることになったと考えたのだ。具体的には、法律・裁判官・執行権力(立法権・司法権・行政権)の三権が国家の権力として制度化されるわけだが、それはあくまで所有を保証するためであって、公共の福祉を越えて適用されてはならないとロックは主張する。

 

公共の福祉というルール

ロックは、このような国家観をベースに、よりよい国家のあり方について議論を深めていく。ロックが想定する国家は、あくまで共同体的合意であるので、いかに国家をうまくマネジメントできるかの力量が、国家の継続に大きな影響を与える。そこでロックが重きを置いたのが、「父権性」の概念だ。

父権性とは、判断力が未熟な女性や子供に代わって、その所有権を男性が保証することだ。ロックは、理性の成熟した成人男性(=自由人)の多数決こそ、共同体的合意である国家を最も合意の意図に沿って運営できると考えた。ただし、この場合も「父権性」の範囲は子供の訓練のためにふさわしい程度に限られており、あくまで限られた範囲での立憲君主制を考えていたようである。

また、絶対君主制に対して「革命権」を明記したことも、彼の国家観を考えれば自然に理解できる。政府が公共の福祉のためにあるという大前提が崩れるならば、民衆と為政者との契約は破棄される。

すべての者が彼と同様王であり、各人が彼と平等であって、そうして大部分は衡平と正義とを厳密に守るものではないのだから、この状態においては、彼の所有権の享受は、はなはだ不安心であり、不安定である。それ故に彼はたとえ自由であっても怖れと不断の危険とに満ちている状態を進んで離れようとするのである。



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