姑獲鳥の夏

文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)

姑獲鳥の呪いを巡る物語

物語は、代々病院を営む久遠寺家に二十ヶ月も身篭ったままの女性がいるという猟奇的な事件で始まる。三文文士の関口は、糊口をしのぐためにカストリ雑誌へ寄稿しており、その過程でこの事件を知るのだが、関口の同級生(牧朗)が問題の久遠寺家に婿入りしており、更には同じく同級生の探偵榎木津のもとに妊婦の姉妹を名乗る女性が依頼に来る中で、自然とこの事件に深入りしていくことになる。

調べていくうちに、久遠寺家では、牧朗が失踪しているだけでなく、嬰児の失踪や、憑物筋のうわさなど、あたかも一族が呪いにかけられたような状況を知った関口は、古本屋の主人にして陰陽師である友人、中禅寺秋彦(通称、京極堂)のもとを訪ねたのだった。関口の話を聞いてひと言、「この世には不思議なことなど何もないのだよ、関口君」という京極堂は、果たして、久遠寺家の呪いを解くことができるのだろうか。

姑獲鳥_鳥山石燕

姑獲鳥(絵:鳥山石燕)・・・うぶめ。産女とも書く。死んだ妊婦の像で、血に染まった腰巻を纏い、子供を抱いて、連れ立って歩く人を追いかけると言われる。

 

京極堂ミステリが残したもの

本作『姑獲鳥の夏』は、素人だった京極夏彦の持ち込みで出版され、40万部を超える大ヒットとなった。森博嗣の『すべてがFになる』も受賞した、講談社のメフィスト賞創設のきっかけにもなったほど、ミステリ界にも大きな影響を与えたことを見ても、この作品がこれまでにない何かを持っていたことが分かる。では、一体それは何だろうか。

この物語を通常のミステリとして読んでいくと、京極堂の謎解きはルール違反ととられる向きがある。読者がトリックを崩すための証言や状況証拠は示されないからだ。しかし、京極堂ミステリは、そんなものは端から飛び越えたところを目指していたのだと思う。物語の中には、通常の謎解きミステリとは比べ物にならないほど、様々な議論が挿し込まれている。妖怪という機能が果たす役割、脳と意識の共犯関係、量子力学が示唆する世界の不確定性。一見、事件と直接関係のないこの手の議論こそ、実は新たなミステリを生む仕掛けなのだ。

心と脳は持ちつ持たれつ、まあやくざと水商売みたいなものだ。どちらかがいかれるとそうとう面倒な揉め事が起きる。だがこれはそれぞれが満足さえすれば概ね収まる。脳や神経には物理的な治療が施せるしね。でも心がそれらの器官と別物だという証拠に、それらが正常な状態に戻っても揉め事が収まらぬという場合がある。そんなとき宗教は有効なのだ。宗教とは、つまり脳が心を支配するべく作り出した神聖なる詭弁だからね

 

メタミステリというミステリ

その仕掛けをひと言で言えば、物語の世界を全てひっくり返してしまうという大どんでん返しである。京極道の憑き物落としは、これまでのストーリーを全て無効化し、異なる事実を別の視点から語る呪術だ。そのプロセスとして、宗教・民俗学・心理学・自然科学などから現実の多面性を提示し、僕たちの認識フィルターを壊すために、手を代え品を代え、語りを繰り出していく。そうして読者の思考をゼロから構築してしまう、ミステリの枠を超えたメタミステリなのである。

見えないものが見えてしまうという榎木津の超能力も、そうした文脈で理解できる。もちろん、そうした仕掛けは、あくまで京極堂ミステリにおける舞台装置に過ぎないかもしれない。しかし、京極堂による舌鋒鋭い語りは、世界観のあり方を見事に捉えており、物語を離れても、読者の世界観を変えてしまう力を持っている。

鬼は常に<異常な出産>によって産まれなければならない、そういった強い民族社会の共通認識が過去にはあった訳だ。特に我が日本ではかなり徹底していた。これは裏返せば<異常な出産>によって生を受けたものは鬼になるという共通認識があったということでもある。だから実際の鬼や極悪人は<異常な出産>の出自を持たなければ説得力に欠ける。因果関係の逆転だ。鬼だと観測された時点に遡って、異常出産という過去が形成される訳だ。だからといって真実異常な出産で産まれた子供が鬼や悪人になる証拠にはひとつもならないがね。

 

フィクションの意味

このように京極堂は、僕らの目の前にあるはずの現実を解体し、不確実性を突きつける。しかし、京極堂はそうして崩れてしまう僕らの脆い現実を、決して蔑ろにはしない。都合のいい情報を取り込み、それをあたかも自分のもののように思い込む人間の認識機構は、恣意的で、京極堂曰く「詭弁」でしかないかもしれないが、それでも、そうしたフィクションにこそ人間は生きているというところに必ず戻ってくる

科学や論理といったものの見方が、まるで絶対的なものさしとして捉えられがちな社会において妖怪が日常を跋扈する世界に住む京極堂の指摘は、そうした視野の狭さから来る生きていくことの救いのなさを鮮やかに指摘している。

呪術はその契約の上に成り立っているコミュニケーションの手段です。しかし現代社会では、その契約の約款が失われてしまった。更に共同体の内部では、呪いに対する救済措置もきちんと用意されている。努力した結果の成功も憑物の所為にされる代わりに、自分の失敗で破産しても座敷童子の所為にできる。都市にそんな救済措置はありません。あるのは自由・平等・民主主義の仮面を被った陰湿な差別主義だけです。現代の都市に持ち込まれた呪いは、単に悪口雑言罵詈讒謗、誹謗中傷の類と何ら変わらぬ機能しか持たないのです。



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