原子力戦争|田原総一朗

原子力戦争 (ちくま文庫)

“頭”のない原発問題

2011年3月11日の東日本大震災による福島原発の事故は、僕たちに目を背けたくなる現実を暴露した。それは、原発事故の被害の大きさ もさることながら、日本国民がいつのまにか信じていた「安全神話」がこんなにも脆いものであったことだ。現在も原発の再稼働を巡る議論が続いているが、そもそもなぜこんなにも脆い「安全神話」が信じられていたのか。原発の賛否を議論する以前に、この点を議論する必要があるのではないだろうか。

原発問題の根っこにあるこの構造をえぐり取った面白い作品がある。それが、田原総一朗が1976年に発表した『原子力戦争』だ。この作品は、テレビディレクターの「大槻」が、原子力船「むつ」の放射線漏れ事故の取材をきっかけに、原発にまつわる関係者たちの絡み合った利害関係の実態を追いかけていく物語で、ドキュメンタリーノベルという体で描かれている。しかし、当時テレビ東京に勤務していた田原は連載の途中でテレビ局の上層部から圧力を受けており(田原は連載を続けるかわりに同社を退社)、フィクションとしながらも取材に基づく“公にされたくない事実”がベースになっているとみるべきだろう。

『原子力戦争』が面白いのには、2つの理由があると思う。ひとつは、フィクションとして濁しながらも、関西電力美浜原発の燃料棒事故と東京電力福島原発の火災事故をすっぱ抜いたことだ。事故として捉える必要のない事象(インシデント)については、国民に実態以上の不安を想起させないよう内々に処理をする。3.11での東京電力の対応も、まさにそのままだった。そうした原発推進側の論理を見事に明らかにしている。

もうひとつは、原発推進者ばかりでなく反対者にも光を当て、原発問題とは反対者も含めた社会全体が負うべき問題であると見抜いたことだ。「安全神話」とは、電力会社をはじめ、政治家・官僚・学者・大企業ら、直接的に利権の論理が働く“原発村”だけでなく、原発立地県の地方自治体や、そこで農業・漁業・土木建設に従事する住人、更には電力の供給先である都市の居住者。こうした無数の人々が見て見ぬふりをしてきた結果なのではないだろうか。田原は3.11後に自身のブログで次のように述べている。

「脱原発」はムードが先行している。ある意味、無責任とも言える。一方、原発推進派は責任を持たず、流れのなかで役割を分担しているだけである。これが原発をめぐる現状だと僕は思う。35年前に僕は「原子力」がかわいそうだと感じた。いまも、そのときと同じ気持でいる。

 

繰り返されるプロパガンダ

物語は、大槻のもとに旧友の三浦からあるテレビ番組の企画が持ち込まれるところから始まる。それは科学技術庁がスポンサーの番組で、テーマとして原発を扱いたいという。監督官庁や電力会社(出先機関を含む)がスポンサーとなって原発に関連させた番組や記事をつくるというのは、莫大な広告費をかけて実際に長年行われてきたことだ。景気が悪かった1970年代当時、正規料金で広告枠を買ってくれる官庁クライアントがテレビ局にとって丁寧に扱うべき上客であったという話も含め、はじめから妙に生々しい。

これをきっかけに原発の取材を始めた大槻は、隠されていた原発の実態をつかんでいく。CIAのように監視と情報統制を行う電力会社、彼らの背後でうごめく通産省や原子力メーカー、補助金で財政の90%を賄う依存症の自治体、そして見え隠れするアメリカの陰。その一方で、現場では下請企業を通して生活のために農夫が兼業し、言われるがままの線量管理のもと、被ばくとの因果関係が特定されないまま白血病で死んでいた。

そんな中、大槻は関西電力が美浜原発で燃料棒を折損させ、燃料ペレットが原子炉容器内に飛散した事故を隠していることをつかむ。この事故は、実際に田原が受け取った匿名の内部告発をもとに暴露したものであり、これをもとに石野久男議員(社会党)が国会で通産省と関西電力を追及、関西電力は当初否定したものの、その後(3年以上かかって)ようやく事故の事実を認めている。

3.11以降は既に有名な話だが、電力会社は総括原価方式を利用した無尽蔵の広告費を背景に、自社に有利なメッセージを大量投下し、有力スポンサーとしてメディアを飼い馴らすことで「安全神話」への疑問をつぶしてきた。それは事故直後の広告費のあからさまな増加や、ニュース番組を狙い撃ちした番組提供を見れば明らかだ。『原子力戦争』を読むと、こうしたプロパガンダ方式が1970年から何も変わっていなかったという、分かってはいたものの認めたくなかった事実に愕然とする。

危険物をおびただしく保有しながら、あらゆる人為的な事故を完全に阻止できる安全社会とは、すなわち超管理社会、超警察国家なのではないか。いや、その前に、それこそ黒い核分裂がエスカレートして、日本列島、というより世界中が一つの修羅場と化してしまうのではないか…

 

空回りする原発推進・反対の議論

3.11以降は、こうした「原発村」の現状に多くの日本国民が気づき、原発反対を叫ぶようになった。恣意的に設定された基準値、巧妙に抜け穴がつくられた補償規定、一向に目途の立たない廃棄物処理、知らぬ間に放出されていた汚染水・・・。こうした杜撰な現状のまま原発を再稼働することに多くの批判が寄せられている。こうした批判は、もし原発を推進するのであれば真剣に受け止めなければいけないものばかりだ。しかし、『原子力戦争』はこうした一面的な原発批判では終わらない。

主人公の大槻は、推進派・反対派の声を繰り返し取材していく中で、原発を巡る議論がむなしく空転していることを悟る。わずかでも放射能漏れの可能性がある限り、これからを生きる子供たちに無責任なことはできないと結束を固める反対派。それに対して、枯渇する石油・石炭の代替や、資源を持たない国家としての戦略として原発の必要性を譲らない推進派。お互いに信念をぶつけ合い、お互いを否定することに終始する議論。現実の世界においても、3.11以降、いったいこの議論は本当に前に進んだのだろうか。

確かに、3.11の惨状を見るにつけ、あのようなアクシデントの可能性が潜在しているものを再稼働させるなんて・・・と反対派の気持ちに共感できるところも多い。3.11以降の計画停電など、様々な強制的措置を取れば原発なしに電力量を賄えることが図らずも明らかになってしまった今や、そう考える方がむしろ自然だとも思う。では、原発を再稼働させないのであれば、原発推進側が提示していた問題にはどう応えるのか。反対派が求める原発廃止は、あくまで危険回避のミニマムコンセンサスでしかない

 

原子力に反対するのが正義で、商売にはなるし選挙の票にもなるというわけのわからん風潮ですよ。アメリカから帰って驚きました。まるであまったれのガキみたいにダダをこねていればエネルギー資源はどこからかもらえるものだと思ってる。世界の資源戦争の熾烈さは政府にもわかっちゃいない。わかってはいてもだだっ子を叱る勇気がない。一億総務責任なんだな。

 

大筋合意という無責任を乗り越える

原発を稼働することによる様々な危険に対し、その対策が合理的に説明できていない現時点において、今のところ個人的には原発稼働を前提に考えることは難しい。たとえば、経済産業省のWebsiteを見ても、災害対策は進んだのかもしれないが、原発そのものが抱える構造的問題への対策については全く触れられていない。3.11を受けて諸外国が原発を廃止することに、電気料金の負担増を持ち出して議論するようでは、さすがに納得は得られまい。

では、仮に原発廃止から考えた時に、本当にそれを実現するには何をしなければならないのか。エネルギー資源をどう確保していくのか、アメリカとの原子力協定とどう折り合いをつけるのか、依存体質の地元経済をどう自立させるのか、エネルギーコストが上がることに対して国民としてどのように許容し、あるいは補償していくのか。こうした「危険」以外の観点から、廃止を成立させるための問題解決をプラクティカルに行わない限り、原発反対はあまりにも粗い大筋合意にしかならないのではないだろうか。

世界経済の最先端をひた走っていたころは、国民の幸せと原発推進の夢はどこか共通したところがあったのかもしれない。しかし、この再帰的な現代において分かりやすい幸せの形などなくなった今なお、推進・反対の白黒分かりやすい正解を追い求めること自体ナンセンスだ。正直なところ、原発問題は進むも困難、戻るも困難というところに来てしまっている。その中で、いかに痛みを含めて合意していくか。民度が問われる厳しい局面に立たされている。



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