日本はなぜ外交で負けるのか

日本はなぜ外交で負けるのか 日米中露韓の国境と海境

それって外交?

外交といえば、領土の問題、資源の問題、戦争の歴史認識の問題などが想起される。では、なぜこれらの問題を“外交”問題と呼ぶのか。

それは、相手のある問題だからだ。この当たり前を誤解していることが、日本の外交問題をこじらせている。つまり、戦後、他国のことを考える切迫感を感じずに済んできたこの国では、守られて当然の国益を、他国とどうバランスさせるかなどもってのほか(売国!)、政治家には「外圧」に負けない愛国心さえ求めていればよかった(断固!)。しかし、庇護者たるアメリカの覇権が弱まり、国家パワーが多極化していく中で未だに旧態依然のパラダイムでしか発想できないこの国は、明らかに弱さを露呈している。

日本研究の第一人者である山本七平は、この構造を鋭い言葉で捉え、僕たちに発想の転換を強く迫っている。

問題の基本は、世界の諸国家の一員としての日本が、この新しい情勢にどのように対応し、それをいかに自らのために活用できるかという点にあると思う。そして、これを探索するにあたっての最大の心理的障害は「外圧」という受け取り方である。

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外交に求められる3つの要件

外交を交渉として改めて考えるなら、交渉には3つの要件が必要になる。

①国益としてどこまでを目指したいのかという戦略目標
②仮に交渉が不調に終わった場合も絶対に譲れないライン(BATNA*)
③戦略目標を実現するために相手国の同意を引き出す交渉カード
*BATNA(Best Alternative To a Negotiated Agreement)

 

①何のための外交か?

3つの要件の中でも一番のカギでありながら、決定的に欠けているのが戦略目標だ。そもそも外交によって何を実現することがゴールなのか。

“われわれ”意識の矮小化した現代において、外交に求めるものは自己利益でしかなく、自発的にリスクを取るよりも、徐々に侵食されて痛みが少ない方を選びたい。こうした典型的なジレンマに陥ったこの国に、戦略目標を求めるのは酷なのだろうか。山本は、そんな戦略目標なき日本特有の構造を次のように指摘している。

これは一種の「自然的予定調和説」のようなもので、これまた日本人の頑とした「宗教的信念」であると言ってよい。その際、小ざかしい小手先の人為など加えれば、かえって問題が紛糾するだけであり、何もしないで静かに待っていればよいとする。

 

②譲れないものは何か?

譲れないものを決めることは、捨てるものを決めることの裏返しだ。しかし、日本人は国益を一部でも捨てるということに相当の抵抗を感じる。それは、既得権益の侵害に対するナイーブなまでの抵抗に加え、山本は、譲歩することが許されない日本独特の「空気」の構造を指摘する。

遼東を還付させられたため、そこで血を流して死んだ「英霊」が浮かばれずにさまよって叫んでいるからこの叫びに応えねばならぬと言うなら、「生きている他人」と話しあう余地はなく、この面では「問答無用」になる。

これはまさに、今でも引きずっている戦争の歴史問題や北方領土の問題と同じだ。善なるものをお守りすることだけが目的になったら、もうそれは交渉ではない。昔の小泉首相、今の安倍首相が、とにかく大義を守る決意で大衆の支持を集められてしまったのも、この国では自然の道理なのだ。

 

③相手とどう付き合うか?

山本も指摘している通り、本来は相手国との交渉で乗り切れないときには、いわゆる「外圧」を内政的改革で切り抜けていかなければならない。どこに対しては内政的対応、どこに対しては外交的対応という原則があるべきなのだ。しかし、目標と譲歩ラインがなく、内政に日和るなどけしからんという「空気」の中では、外交的対応は、必然的に「玉虫色」か「一億玉砕」のどちらかにならざるを得ない。山本の言葉を借りれば、「挙国一致的ピントはずれ」とでも呼ぶべき状況だ。

国内的には、利害を基礎とした政治的取引による解決を主張する者は「口がきけなくなる」ことであり、マスコミがこれに同調して政争が作用し、「領土問題において譲歩を主張した者は必ず落選する」となれば、「救いがたい挙国一致」が招来されて当然だからである。だがこういう挙国一致は何の合理的解決ももたらしはすまい。



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