人はなぜ「美しい」がわかるのか

人はなぜ「美しい」がわかるのか (ちくま新書)

なぜ「美しい」と感じるのか

僕たちはどんなものを「美しい」と感じるのか。「美しい」の定義とは何なのか。

こんな当たり前で、改めて考えるまでもなく「美しい」と感じる僕らの心の動きを、

『桃尻娘』シリーズで女子高生の心の機微を見事に描写した橋本治が、

本書では敢えて徹底的にロジックで「美しい」を定義していく。

そうしたロジカルな定義のプロセスの中から、「美しい」は何“ではない”のか、

「美しい」を感じる背景にある本質とは何なのかが透けて見えるという面白い試みだ。

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美しい≠合理的

はじめに、著者は「美しい」は合理的なものから受ける感情であると仮定して議論を進める。

例えば、スポーツ選手のフォームが「美しい」という感情の源泉は、実は分析していくと

身体構造上、合理的な角度や比率か否かに還元できるのではないか、という仮説である。

確かに、ロジックとしてはあり得るような気がするが、人々が「美しい」という感情に

打ちのめされている瞬間に、そんな分析的な目で見ていると想像するのは

誰もが実態にそぐわないと感じるのではないだろうか。

「美しい=合理的」というのは後付の、第三者的なロジックでしかない。

 

美しい≠いい

次に、「いい」(=「カッコいい」)との違いを確認することで、「美しい」が何なのかに迫っていく。

「いい」を使うのは、例えば「いい男」や「いい天気」といったシーンだ。

ここでよく考えなければいけないのは、「いい」けど「美しい」ではない、

「いい」ではないけど「美しい」ということがいくらでも存在するということだ。

「いい」男は「美しい」男であるとは限らない。よく考えれば当たり前だ。

著者は、「いい」の判断を「自分の欲望充足に関する合理的な判断」と見抜いている。

したがって、「いい」ばかりで判断していると「美しい」は感じなくなる。

神戸連続児童殺傷事件のように、自らの凶行を「美しい」と語る人が典型的な例だが、

それはあくまで自己満足の「いい」に過ぎないということが分かる。

 

美しい=他者の肯定

さて、「美しい」とは異なるものについては何となく分かってきた。

では、「美しい」とは一体何なのか。著者は、こう言葉で表している。

「“美しい”とは、“存在する他者”を容認し肯定してしまう言葉だ」と考えます。

自分の欲望と関係なく、合理性ともかけ離れた、ただただそこに存在するもの。

岡本太郎の「芸術は爆発だ」的作品は、意図してそこを目指したものとして分かりやすい例だ。

何の絵か分からないが、とにかく色が強烈で、たくさんの目玉が睨みつけてくる。

昔、僕がその絵の前に立った時、それまでの考え事も忘れて、絵を見つめていたのを覚えている。

こうした没入の感覚は、動機のような他人に分かりやすい感情構造を超えたところにあるので、

人間は「美しい」を美醜に結びつけて考えてしまうのだと、著者は指摘している。

そういえば、西田幾多郎の「純粋経験」も、この「美しい」の構造を捉えたもののように思う。

 

「美しい」でしかできないこと

「美しい」が大切なのは、「自分とはなんの関係もないけど美しい」事態があり得るからだ。

普段の自分中心の生活視点からは、こんなやつ、自分には関係ないと断言できたとしても、

その人と対峙したときに、ああ、こいつもこうやって生きていると心のどこかで感動するかもしれない。

「美しい」の次元で心がつながる可能性。そういう前向きなメッセージを心に留めておきたい。

<「美しい」の源泉は、そこに存在する相手にある。>

僕なりに著者の言葉を言い換えると、こんな言葉になるような気がしている。



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