職業としての学問

職業としての学問 (岩波文庫) Wissenschaft als Beruf

学問を志す者へのアフォリズム

本書『職業としての学問』は、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で著名なドイツの社会学者マックス・ヴェーバーが晩年にミュンヘン大学で行った講演を収録したものである。この講演の当時には、第一次世界大戦末期にドイツ帝政が打倒されたドイツ革命(1918年)があり、ドイツ国内は、新しい社会思想としてマルクス主義や新文化建設運動が起きるなど、これまでの社会経済体制を超えたユートピアに対して期待感が高まっていた。

ヴェーバーは、雄弁にして熱のこもった口調で、社会科学のプロフェッショナルとしてそうした風潮を痛烈に批判し、アカデミズムとしてあるべき姿を滔々と説いた。彼の鋭いまでの言葉は、学徒としての自分にとって大切なアフォリズムになっている。ヴェーバーが学生たちに訴えたのは、大きく2つのことについてだ。

  • 専門家としての徹底した探求心
  • プロフェッショナルとしての職業倫理

 

専門家としての徹底した探求心

専門家として特定の領域に深い知見を持つことは、プロフェッショナルとしての前提条件だ。ヴェーバーは、絶えず進化を続け、専門分化していく学問の最先端を開拓していくには、自分の専門領域に専念し、その他の領域には手を出してはいられないと言う。

こんにちなにか実際に学問上の仕事を完成したという誇りは、ひとり自己の専門に閉じこもることによってのみ得られるのである。これはたんに外的条件としてそうであるばかりではない。心構えのうえからいってもそうなのである。われわれも時折やることだが、およそ隣接領域の縄張りを侵すような仕事には一種のあきらめが必要である。

ヴェーバーのこの主張は、社会科学の知識がようやく科学的手法のうえに積み重なり、専門分化を突き進めることで「容易に収穫できる」イノベーションの果実を得られた時代においては適切なアドバイスだったかもしれないが、研究が成熟した今も言葉通り受け取るのは難しい。一方で、“学際”というのも、個々に専門的なディシプリンを持ったプロフェッショナル同士でこそ可能なコラボレーションではないだろうか。そうした意味で、ヴェーバーの指摘を受け止めている。

 

プロフェッショナルとしての職業倫理

プロフェッショナルとして、特に思想に影響力を持つ社会科学の専門家として、常に客観的な立場を心がけなければいけないということをヴェーバーは再三強調している。教える側として、教えられる側より知識を持ち、批判される構造に晒されにくい中で政治思想、宗教、文化などに対して、教育の場で偏向を持たせるようなことはしてはいけない。教師はあくまで「教師」であって、決して「指導者」ではあってはいけないのだ。ヴェーバーは、あるべき態度を「知的廉直」という言葉で表現している。

 

客観主義のメッセージの本質

もちろん、物事を教えるときに完全に客観的であることなど不可能だ。難しく言えば、客観的であろうとすること自体が主観だという再帰的な無限後退にならざるを得ない。ヴェーバーの主張は、この点からよく批判されることが多いのだが、個人的には、常に様々な立場の学説に目を配らせ、考察・検証において様々な方法論から検討することで、教えられる側に“考えるマージン”を残すことをヴェーバーは教えたのだと捉えている。例えば、日本の歴史観は自虐的と言われるが、愛国的に調整するのは問題の本質を見逃している。自虐的なことも愛国的なこともそのまま教え、どう捉えるかは受け取る側に委ねるべきだ。

ある研究の成果が重要であるかどうかは、学問上の手段によっては論証しえない。それはただ、人々が各自その生活上の究極の立場からその研究の成果がもつ究極の意味を拒否するか、あるいは承認するかによって、解釈されうるだけである。



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